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帰国致しました。

 
何とかかんとか、帰国致しました。

今回も嫁の帰省半分、仕事半分で行ったので、あまり海外旅行というようなのん気なものではなかったですね。

何をおいても、どこもかしこも渋滞がひどいです。ひど過ぎます。一方通行の狭い路地に三台並列で、その間を順走どころか逆走のバイクが埋め尽くすって、何なんですか。ジャカルタでは、ちょっと郊外のショッピングモールに買い物にとは言っても、数時間単位で考えなくてはなりません。完全に都市機能マヒしていますね。

それと今回気づいたのですが、それが更なる問題を引き起こしつつあるようです。それは、大気汚染です。早朝のジャカルタは朝もやがかかってエキゾチックだな〜、と思っていたら、昼になってももやが消えない。要するに排気ガスだった、みたいな。大きな都市では、通りに面してお洒落なカフェがあったりしますね。ジャカルタにもそれっぽいものはありましたけれども、排気ガスのシャワーを浴びながらコーヒーは飲めないですね〜。中国の主要都市でも大気汚染が深刻化していますが、ジャカルタがその仲間入りをするのは、間違いなく時間の問題だと思います。

まあ海外に出ると、良い意味悪い意味含めて、国家間の文化とか考え方の違いですとかを、あからさまに自覚させられますね。実際命の危険とかあったし。終わってみれば何てことはなかったですけれども(自分の周り以外にも、いろいろあったみたいです。これとかこれとか。近所やんけ。ネットがなかったお陰で知らぬが仏(笑))。

ここら辺落ち着いたらまた論じてみようかな、と思っていますが、取り敢えず数日はこの世界第二位の快適なネット環境を、存分に楽しませて頂くことと致します(笑)。

そんなわけで、本日より通常業務を再開致します。週末18日の教室も、予定通り行います。今後とも宜しくお願い致します。

at 11:57, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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ジャカルタからバンドンへ移動しました。

 
先週末、ジャカルタからバンドンへ移動しました。

バンドンは、ジャカルタから車で大体二時間くらいのところにあります。通常では。というのはインドネシア名物、大渋滞があるからです。今回も案の定ジャカルタ市内から郊外へ抜ける経路でいきなり大渋滞に巻き込まれ、結局二時間半くらいかかってしまいました。でもこれはマシな方だったようですね。義妹一家は渋滞に巻き込まれないようにと一足先に出発したのですが、皮肉なことにはその時がどうやらピークだったらしく、五時間くらいかかったそうです。

年々渋滞がひどくなるね〜、なんて義弟に話したら、即座に、年々じゃないよ、毎日だよ、と返されました。さもありなん。これを如何に解消するかが、目下インドネシア政府に科せられた課題だそうですね。解消する気があるのかどうかは、また別の話でしょうけれども。因みに列車という手もありますけれども、列車はもっとエグイらしいです。一本の線路を十本くらいの路線が仲良くシェア、みたいな。タコ足配線もいいところですな。ジャワに観光に行かれる方は、民間の高速バスのご利用を、お勧め致します。

ここバンドンでは、蝉が鳴いております。日本ではまだ蝉の季節ではないので、一足先に初夏の気分ですね。空気もジャカルタよりもマシです。やはり昔『東洋のパリ』と言われた、高原のリゾート地というだけあります。しかし昨今ではそれが幸か不幸か別の問題を生みつつあり、週末になるとジャカルタからだけではなく、マレーシアやシンガポール辺りの近隣諸国からも週末を楽しむレジャー客が押し寄せてきていて、更なる渋滞はおろか、騒音、治安、ごみの問題など、多くの矛盾を生みつつあるようです。鳥取では絶対にあり得ないですね。ちょっと分けてもらえませんか?(笑)。

一歩路地を越えると大変なカオス的喧騒ですが、幸いなことにここ嫁の実家辺りは非常に静かで、有難いことです。朝4時に近所のモスクから聞こえる爆音のコーランについては、判断が微妙ですけれども。

私的なことを言わせて頂くと、シンセをいじらないと気が狂いそうになる私としては昨年大変な思いをしたのですが、今回はPCを持ち込んだので、昨年のような蛇の生殺し的な状況にはならなさそうです。更に幸いなことに、東京でCGアーティストとして活躍している義弟の部屋に忍び込むと、埃を被ったアンプを発見!早速拝借して、勝手にセットを組み上げました。うーむ、私よりいいアンプ持ってたな。取り敢えずこれで滞在中も、DTMは可能っぽいです。ただ一台しかPCがないので、嫁との領有権争いは避けられそうもありませんが。何はともあれ、帰国したらタブレットを買わねば。

もう一つの問題は、ネットの遅さです。嫁の実家の電波状況が悪いのかも知れませんけれども、友人のメール返信に数時間って何ですか、みたいな。因みにインドネシアのネットの速度は、世界第150番目だそうです。も一つ因みに日本は、世界第二位。意外なところで日本ってすごかったんですね。この利点をもう少し、生かせないものでしょうかね。

今夜のBGMは、Solar Fieldsの"Movement"。この辺のPsyChillな感覚は、肌に合いますね。というわけで、エレクトロニクスと外の得体の知れない虫の鳴き声のナチュラル・ミックスを楽しみつつ、夜は更けていく・・・。

5月1日、ようやくWebに繋がったバンドンにて。

at 18:03, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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取り敢えず、ジャカルタです。

 
取り敢えず、ジャカルタへ到着致しました。

今回は、大韓航空を利用致しました。この時期にしては随分安かったものですから。でも連休中に動くとやはり高いなあ、じゃあ連休は外して動こうか、みたいな話を嫁としている内に、ざっと20日間の滞在になってしまいました。これって、まんまと乗せられたんじゃないだろうか・・・。

出発したのは、24日。25日のフライトの一日前に関西に入って、出発前のお土産を算段することにしました。ところがその日に大阪の友人から、ぎっくり腰になったから見てもらえないか、との突然のオファー。この忙しいのにか、と思ったのですが、取り敢えず引き受けることにしました。喫茶店に入って嫁の隣ではなく彼の隣に座って、腰の調整。傍から見たら、この二人ゲイじゃないかと思われかねない微妙な図ではありましたが、まあ何とか調整は出来たようです。

関空からソウルまで、大体一時間半。そこからジャカルタへ、約5時間半といった行程でした。ところがいきなり危険人物の私ではなく嫁の方がセキュリティチェックに引っかかり、なおかつ書類の不備も重なったりして、嫁の極端なまでのポジティブ思考のお陰で、ゲートまで全力で走るみたいなスリルを味わわせて頂きました。

今回は、PCを持ち込むことにしました。お陰で前回のように、浮世から隔絶された思いをせずに済みそうです。ただこんな重そうな化石みたいなPCを持ち歩いているのは、私だけっぽく、周りの方々は、インドネシアでも皆さんタブレットですけれどもね。ショッピングモールかどこかで、タブレット買った方が良いのかな。日本語は期待しませんが、全部インドネシア語だったら悲しいけれど。

遠くからコーランの詠唱が聞こえて参ります。写真をアップしようかなと思ったのですが、アップの最中に突然ダウンすること必定なので、しばらく様子を見ます。というわけで、遅いスピードに負けず、たまに更新はさせて頂こうと思っています。オンラインでのカウンセリングも継続して行えそうですので、そちらも宜しかったらどうぞ。

4月26日、夕方の大渋滞のジャカルタより。

at 19:37, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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無事ではないですが、何とか帰国致しました。

 
無事ではないですが、何とか帰国致しました。

今回は2月6日から18日までの二週間、という長丁場でした。その理由は私の父が、中部ジャワにあります世界遺産ボロブドゥールを見たいと言い出したからなのですけれども。入国後ジャカルタに一泊して後、そのボロブドゥールのあるジョグジャカルタに移動して三泊、その後ジャカルタに戻って二泊した後、嫁の実家であるバンドンへ移動して帰国時まで滞在、という日程でした。

観光だけではなく仕事も兼ねて、個人的にいろいろと動いていました。ジョグジャカルタではボロブドゥールだけではなく、地元のバティック・アーティスト達と、アートに関して意見交換したりとか。特にバンドンに着いてからは、次から次に施術の依頼を受けて、何だか観光に来ているんだか仕事に来ているんだか、良くわからなかったですね。

気功というのは現地でも珍しいらしく、いろいろと東洋医学の視点からの健康に関する相談を受けたのですが、今回その中で、気付いたことがいくつかあります。まず第一に、インドネシアの方々は押しなべて、基礎体温が低い。これだと免疫機能が十分に働かないので、病気になりやすいのはむべなるかな、みたいな。もっとも当然南の国ですので、シャワーを浴びる習慣こそあれ(これがまた、冷水を浴びられるわけですわ)、風呂に入るという習慣が無いので、ここら辺が文化の違いというか、微妙なところですね。そういえばうちの師匠が以前言っていましたけれども、何かの機会で中国のかなり高名な気功家の講習会に参加した時に、その参加者の一人が、なぜ日本人はあんなに長生きなのか、と問われて、その気功家は即座に、「それは、彼らには入浴の習慣があるからです」と答えたらしいですけれども、頷ける話ですね。というわけで私も、とりあえずは足湯を習慣にするように勧めておきましたけれども。因みに嫁の語るところでは、後で皆さんから、何でユウイチの手はあんなに熱いのか、とびっくりされていたそうです。ええ、基礎体温の違いもあるでしょうけれども、これが練功の賜物というわけでして(『朱砂掌』という功法ですね)。あとは、基本的に食べ過ぎですよ皆さん。しかも朝から晩まで天婦羅と唐揚げは、さすがにヤバイですって。それで血圧を下げようというのは、無理な話でして。また日本の話になっちゃいますけれども、世界中で日本食が健康食として高い評価を受けているのは、その点でも理解出来ますね。インドネシアは残念ながら、完全にその逆。ここでもまた習慣の違いの話になっちゃいますので大きな声では言えないんですけれども。私がお茶漬けを食べていると、あんなものは食べ物なのか?と真顔で不思議がっていらしたみたいですから。少なくとも、生野菜は食べて下さいね(だけど、生はすぐ腐るのかなあ。うーん、難しい)。

それだけ気をつけていた私でも、最後の最後でついに今回も地雷を踏みまして、えらいことになりました。丸一日吐くわ下すわで大変でしたけれども、それが終わるとすぐに、症状が治まりましたね。興味を持ったので帰国してからネットで調べてみると、どうも酸化した油に当たったんですな。酸化した油はかなり強い毒性を持つそうで。因みにそのソースによると、そういう場合に下痢止めとかを飲むのは、本来排出すべき物質が下痢が止められることによって体内に残ることになり、逆に症状を悪化させることになるケースがあるので、良くないそうです。もちろん私は薬を使わずに点穴で処理するわけですけれども、点穴をすればするほど嘔吐や下痢がひどくなるので、こりゃ点穴が効かなくなったのかな、と焦りましたが、逆だったみたいですね。

しかしつらつら考えるに、インドネシアという国もなかなか複雑な国ですね。アナーキーそのものという感じで。もちろんソマリアみたいにリアル北斗の拳状態にはなっていないのがせめてもの救いですが、汚職、賄賂(運転免許は金で買うというのが常識らしいですからね)、絶望的な交通渋滞などなど・・・。日本も「格差社会」という言葉が使われるようになって久しいですけれども、こちらみたいに金ピカの高級官僚の大邸宅の門前にひしめく物乞いの人達の群れをみると、日本って本当に平和だよな〜、と考えさせられますね。私が交際交流関係の活動に興味があるのは、もちろん異文化に興味があるというのも理由の一つですけれども、逆にそのことによって、日本を省みる良い機会になるからなんですね。そういう意味でも、まあ今回も考えさせられる旅でした。

というわけで月曜日から、通常業務を再開致します。今後とも宜しくお願い申し上げます。




















at 15:13, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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じゃがたら見聞録(9)〜再び襲う食あたり・・・(10月23日)



10月23日、快晴。てか、またもや苦しい。


先日と同じだ。再び私は、昨夜は南極大陸と赤道直下を分刻みで行ったり来たりすることになった。どうやら基本的に、この国の油脂を私の胃袋は受け付けないようだな。しかしかなりひどいことになるもんだな。これは私の胃袋が弱いためか、はたまた敏感になっているためか。まあそんなことを考えていても、どうなるものでもない。私は前回と同じ施術を、自分自身に施した。これでしばらく様子を見ることにしよう。


今日はご家族全員で、スラバヤから少し離れた街にあるご先祖のお墓に参る予定になっていた。しかし、車で約二時間。私はくらくらする頭で考えた。取り敢えず下痢は収まっているのでそれは何とか出来るとしても、この熱だけはすぐにはどうにもなりそうもない。途中どんな道なのか皆目検討が付かないが、少なくとも日本の高速道路のような舗装がなされているとは到底思えない。この状態で約二時間近く頭をシェイクされたら、さすがにヤバイかも知れない。しかし今回スラバヤに来た目的の一つは、このお墓参りなのであり、その意味でご両親をがっかりさせたくはない。はてさてどうしたものか。


そんな思いを察してくれたのか、嫁は我々だけ、このお墓参りをキャンセルしよう、と言った。私は非常に心苦しかったが、出先でひっくり返って入院騒動を起こして迷惑をかける方がより心苦しいかも知れない、と考え、最終的にその申し出を受け入れることにした。


というわけで、次の日にジャカルタへ移動する我々とご両親とは、ここでお別れ、ということになった。私は、このような形でお別れすることになって申し訳ない、と言うと、ご両親は、ノー・プロブレム、と笑って言ってくれた。我々はご両親を、ロビーまで見送った。彼らが出て行くのを見届けると、私は部屋へ帰り、そのまま再び倒れ込んだ。


次に目が覚めた時には、すでに午後になっていた。何とか熱は、小康状態に落ち着いたようだ。しかしスラバヤは暑い。それは昨日すでに経験済みだった。しかし今日は、何だかそれ以上にやたらと暑いぞ。熱は下がった様子なのに。さすが南国だな、と思っていると、嫁がやってきて、この部屋、エアコンが壊れてるわよ、と言った。取り敢えずボーイさんに頼んで調整してもらったが、一向に直った気配はなかった。


それでも夕方頃になったら、体調はだいぶ落ち着いてきた。手元に烏龍茶のティーパックがあったので、夕食には嫁に『ほかほか弁当』からご飯を調達して来てもらって(素朴な疑問なのだが、この国の『ほかほか弁当』は、日本のそれと同じ系列企業なのであろうか)、それに烏龍茶をかけて梅干としそをまぶして食べることにした。ああ、これが一番僕の体には合ってるよな。何て安上がりな胃袋だろう。


夕食後に私達は、義妹とアリアン君とでもう一度、お祖母さんのおうちを訪ねることにした。タクシーに乗っている間中、アリアン君は私とふざけあっていた。言っていることは全然わからないのだが、こんな形のコミュニケーションもありかな、と思うと私は嬉しくなった。


お祖母さんは私のことを、当然完全に忘れているので、私達は事の起こりを一から説明したのだが、それも数秒後には忘却の彼方へと消え去り、私達はテープループのような歓談を続けていた。お祖母さんは、よくうちには学生時代の友人達が遊びに来てくれるんで、ちっとも退屈しないんだよ、と楽しそうに話していた。その横で嫁が引きつったような笑い方をしているのでその理由を尋ねたところ、お祖母さんの友人達はとっくの昔にみなお亡くなりになっているそうである。なるほど、それが記憶の混乱による昔話ならいいけれど、ごく最近の話だとすれば、リアル・シックス・センスって感じで、確かにある意味恐いよね。


その後私達はお祖母さんに別れを告げて、街のショッピングセンターで買い物を済ませた後、ホテルへと帰った。次の日は早朝の飛行機に乗らなければならないため、私達は早めに休むことにした。しかし、エアコンから出てくる温風は、そんな私を一睡もさせてくれなかった・・・。




 ↑よろしければ、是非

at 17:25, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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じゃがたら見聞録(8)〜ついにスラバヤ到着、そして始まる二度目のフィーバー・・・(10月22日)



10月22日、快晴。てか、今日は涼しい。取り敢えず車内だから。


ジャカルタを出てから、どれくらいたったのだろう。スラバヤへはまだ着かない。だいぶ列車は遅れているようだ。というのは昨夜、見知らぬ駅で突然列車が止まり、数時間そこで足止めを食ったからだ。何でもジャカルタからスラバヤまでは単線なので、何かトラブルがあるとその路線全体が運休となるらしい。そんな感じで足止めを食らった列車が、我々の列車の前に数本つかえているらしい。数本ですか・・・。その言葉を聞いた時、私はさらに覚悟を決めた。


昨夜はほとんど眠れなかった。それはシートのせいではなかった。うつらうつらしてくると、列車はどこかの駅に停車する。その瞬間、カンカンカンカンカンカンと何かを激しく叩く音と怒鳴り声がして、私は飛び起きる。何事が起こったのかと思えば、物売りである。列車が止まったので、ここぞとばかりに激しい売込みをかけるわけだ。売る方は必死かも知れないが、眠りかけている人間にはたまったものではない。まさかこれが一晩中、各駅に止まるたびに続くんじゃないだろうな、と思ったら、案の定だった。日本の夜行列車やバスのように、他のお客様のご迷惑とならないようにご配慮下さいませ、みたいな観念は、当然皆無である。うんざりしながら顔を窓へ向けると、今度は後ろからものすごい香りがしてきた。後ろのお客がドリアンを買って食べているらしい。さすがは果物の王様、なんとエレガントな香り・・・。


そうこうしているうちに、もう朝になってしまった。と、嫁の携帯が鳴った。お袋からであった。どうやら無事に難波に着いたらしい。これから高速バスに乗り換えて、鳥取へ帰る、との連絡であった。外国へ帰ったあなた方がもう着いて、同じ国にいる我々がまだ着いていないって、どういうことですか?そんな私の心の叫びをものともせず、列車は田園の中をひた走る。時々列車が止まりそうになると、私の心臓も止まりそうになる。頼むからスムーズに走ってくれ。さすがの列車好きの私でも、少々この旅はこたえた。


こたえていないのは、どうやらアリアン君ただ一人だけのようであった。彼は列車が大好きなようで、走り始めてからずっと一人で大はしゃぎしている。最初は彼は、私に非常に警戒感を抱いていたようであったが、この列車の旅で、私にも慣れてきたようだ。次第に私にまとわりつくようになった。今年3歳。可愛い盛りである。ただ私達の間には、超えがたい壁があった。彼が何を言ってるのか、全然わからん。最初は嫁にその都度通訳をしてもらっていたのだが、次第に面倒くさくなった。しまいには私は、どうせわかりゃしないんだから、と開き直って、あえてここは鳥取弁で対応することにした


アリアン君「・・・・・・・・・・・・・・!(道を指差して何か叫んでいる)」
私「おー、ようけ車が止まっとるがないや。渋滞しとっでないか。」


このように国籍不明の会話を続ける我々を、嫁や義妹夫婦は面白がって見ていた。


そしてついに、列車はスラバヤへと到着した。


スラバヤは暑かった。並みの暑さではなかった。恐らく40度近くあったのではないだろうか。いきなり真夏、といった感触であった。しかし不快ではない。というのもスラバヤは、暑いことは暑いのだが、湿度が低いのでカラッとしているのだ。その辺りがジャカルタとは違う。街並みも非常に美しい。驚いたのは、道が整然としていることである。車と車の間に空間があるではないか(笑)。ここの街の人々は、きちんと交通規則を守るらしい。変な話だが、何だか別の国へ来たかのような印象であった。


そして我々は、ホテルへ着いた。ホテルとは言っても実はここは、軍関係の保養所らしい。パパさんが元インドネシア軍の将校なので、その関係でここに泊まることになったのであろう。ホテルにはすでに、パパさんとママさんが到着していた。


さて、お昼だ。嫁は、私はスラバヤの友人に会わないといけないのだけれども、あんたも来る?と言うが、私は取り敢えず、食べるよりベッドの上で眠りたかったので、ご辞退することにした。じゃあ何か食べるものを買ってきてあげるから、と言って、嫁は出て行った。私はベッドに横になり、すぐに寝入ってしまった。


しばらく眠ってから時計を見ると、もう午後3時。嫁はまだ帰って来ない。私は小腹が空いたので、庭に出てお茶を飲みながら、昨夜列車に乗る前にダンキン・ドーナツで買った食パンを食べた。しかし、何だか変な食感だった。こりゃ日本の食パンと、少々勝手が違うな。私は二枚ほどで止めておいた。


そのうち嫁が、友人と共に帰ってきた。私達は縁側でいろいろと談笑した。彼女がお土産に、と言って、チーズ・ケーキをくれた。この店のチーズ・ケーキはとっても美味しいのよ、是非ご賞味あれ、と言って、彼女は帰って行った。その箱には二つチーズ・ケーキが入っていた。私はそのうちのブルーベリー・ジャムが乗っている方を食べることにした。しかし食べた瞬間、イヤな感じがした。数日前の体の中の番犬がワンワンやっている感触に、かなり近かった。彼女には悪かったが、私はひとかけらだけ食べて、残念ながら残すことにした。


中庭をうろついていると、アリアン君が目ざとく見つけて飛びかかってきた。彼は私をしきりとロビーに連れて行こうとする。ロビーには巨大な水槽があって、そこの魚を私に見せたがっているのだ。ロビーの水槽を二人して眺めていると、彼はいかん、いかん、と言っている。何がいかんのだこいつは、と思っていたら、ikanはインドネシア語で魚を意味するらしい。なるほど、勉強になりました。その横にはピアノがあった。今度はそれを弾けと言う。仕方がないから『となりのトトロ』を弾くと、とても喜んでいた。さすが宮崎アニメ。ワールド・ワイドだ


今夜はスラバヤでのパーティである。パーティ会場へ行く前に、嫁の母方のおばあさんに、ご挨拶に行くことにした。タクシーに乗ること十数分。市街地から少々離れたところに、おばあさんご一家の家があった。おばあさんは異国からやってきた私を、温かく迎えてくれた。私達は嫁を挟んで談笑した。ただ、おばあさんは日本で言うところの痴呆が若干見られるので、記憶がよく飛んでしまうらしかった。


「へえ、あんたがサリの旦那かい?ほう、日本からやって来たのかい?遠いところから大変だったねえ。そうかいそうかい、で、あんた一体誰?


このような、昔『ドリフの大爆笑』で志村けんがやっていたギャグを地でいくような会話が私達の間に交わされたが、私は職業柄そういう状況はよくお目にかかるので、特に苦ではなかった。さらに私がそれに激しいボディ・ランゲージで対応するものだから、向こうのご家族には受けていたようだ。


そしてパーティ会場。約40人以上集まっていたであろうか。私にとってはパパさんご夫婦や義妹一家を除いて、誰が誰やらさっぱりわからなかった。嫁に尋ねると、その3分の1近くは知らない、と言っていた。ともかく彼らは何かにつけて、このようにパーティを開いては飲み食いする、というのが楽しみらしい。目の前にまた大量の料理が並んだ。しかし私は恐ろしかったので、体調が悪いので、ともったいぶった理由をつけて、取り敢えず米だけ食べていることにした。


パーティが終わって、私達は帰路へ着いた。その時までは何ともなかった。ホテルに帰ってロビーを歩いている時、突然私を悪寒が襲った。ああ、目くるめくあの懐かしい感触。でもパーティでは、何も食べていないのに、どうして・・・?その瞬間私の脳裏に浮かんだのは、あのチーズ・ケーキ。そっ、そんなあ、とケンシロウに殺される悪漢の心境ではあったが、時すでに遅く、瞬く間にその悪寒は全身に広がっていった・・・。




 ↑よろしければ、是非

at 20:39, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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じゃがたら見聞録(7)〜両親は帰国、そして乗り込むトランス・インドネシア・エクスプレス・・・(10月21日)



10月21日、快晴。てか、やはり暑い


嫁はどうやら昨夜は落ち着いて眠ったらしい。私は彼女を眠らせておいて、取り敢えず部屋の外へ出た。腹が減ったのだ。人間なんて、現金なものである。回復してしまえば元の木阿弥。まあこれが健康の証なのだから、と勝手に自分自身を納得させて、てんこ盛りの朝食を楽しんだ。


さて、気になるのはお袋である。一体どうなっているのだろうか。よく考えてみれば、親を放ったらかしでまずは朝食、という発想も、ある意味薄情なものではあるが。私は恐る恐る、隣室のドアを開けた。そこで見たものは・・・、せっせとパッキングを続けるお袋。


お袋が言うには、最後の点穴が効いたらしい。その後異常に楽になってそのまま眠り、朝になると完全に症状が消えていたそうだ。そりゃあ良かった。どうやら入院は避けられたようだな。そうではなくとも今日はバンドンからジャカルタまで、シャトルバスを利用しての移動である。私もシャトルバスを利用するのは初めてだったので、どうなるかわからない。その未知のシャトルバスに高熱でうんうんうなったまま乗り込むというのは、さすがにバクチに近い。しかし今の状況であれば、全く問題はなさそうだな。


10時過ぎに、ホテルをチェックアウト。これでバンドンとはおさらばなので、嫁の家にご挨拶してから経つことにした。と言いつつ本当の理由は、親父が、嫁の家の周りの風景を写真に撮りたい、と言い出したからなのだが。家に着くと、メイドさん以外の誰もいなかった。というのはご両親は、次の合流先であるスラバヤへ早々と向かってしまったためなのだが。嫁の家の今回のメイドさんは、日本人の家庭でも働いた経験があり、少しだけ日本語がわかる。日本料理の作り方もわかるそうである。なかなか気さくなおばちゃんであった。


嫁の家の隣は小学校で、その時はちょうど休憩時間らしく、たくさんのきっず達が校門の周りで遊んでいた。親父はその風景を、興味深そうに写真に撮っていた。


私達は嫁の家を後にして、シャトルバスの発着場に向かった。バンドンにはこのような民間のバス会社が多いらしく、他の都市へ行くのには列車よりも、このようなバスの方が便利なのだそうである。うーん、でもこれって、マイクロバスだよね。私は幼少時、祖母に連れられて小豆島の霊場を参拝する時に一行が使っていたマイクロバスを思い出した。あれってスプリングがちゃんとした機種じゃないと、振動がモロに伝わって不快なんですけど・・・。そんな私の希望は、通じそうには思えなかった。


私達がバスの発車を待合室で待っていると、突然派手なダミ声で誰かががなり立て始めたのが聞こえ、一瞬ビビった。どうやらお祈りの時間らしい。これまでにもかすかに聞こえたことはあったが、ここまで派手ではなかった。どうやら真近くにモスクがあるんだな。私と親父は探検に向かった。すると案の定、少し離れたところにモスクがある。ダミ声はそこのスピーカーから聞こえてくる。私は中を覗き込んで写真を撮ろうと思ったが、待てよ、こんなところで不用意に写真なんか撮って、身柄を拘束されたらイヤだな。そう思って私はカメラをしまったのだが、ふと見ると親父はお構いなしで、写真撮りまくりであった。うむ、単なる小心者の杞憂であったか。遠くから嫁が、心配そうにこちらを見ているのが見えた。


そして、発車時刻がやってきた。同乗の客がその肉親らしき人と、涙の別れをしている。彼は何を思って、肉親と別れ、この街を離れるのだろう。なかなか切ない光景であった。しかし窓側に座った私がそれ以上に気になったのは、このマイクロバスのドア、走行中に突然開いたりしないだろうな、ということであった。その手の事故が日本でもよく報道されているけれど、異国で車外に放り出されるのはイヤだ。私は念には念を入れて、ドアのロックがまともに機能するかどうかを確認していた。


バスはバンドンを離れ、一路ジャカルタに向けて、高速道路をひた走る。そのそばを、物売りが歩いていく。何というのどかな光景。しかし貴様、ここは高速道路だぞ。日本ではモロに道路交通法違反のはずだが、この国は関係ないらしい。道路工事をしている箇所も、何回か通りかかった。人夫さんがコテにセメントを盛って、道路に塗りたくっている。うーん、ハンドメイドの高速道路か。エコでよろしい。


周りは延々と、田園風景が続いている。列車と同じである。バンドンは盆地なので、他都市へ行くにはこのような田園を必ず通過しなければならないわけである。親父はこの風景も写真に撮りたかったようだが、このバスの振動ではちょっと難しいようだな。


この調子で約二時間半ぶっ飛ばすのかな、と思っていたら、一応休憩はあるらしい。途中で給油を兼ねて、パーキングエリアに到着した。インドネシアの『道の駅』ってとこだな。なかなか洒落たカフェもある。車での移動であれば、ここでゆっくりしたいところではあったが、乗り合いバスなのでそうも言ってはいられない。約15分の休憩の後、私達は再び、バスへ乗り込んだ。


そうこうしているうちに段々と、家の数が増えてきた。車の数も増えてきた。明らかにジャカルタが近づいてきたのがわかる。もう間もなくだ。数回しか訪れていないとは言えどこかで見たような風景を何箇所か通過し、ついにバスは、スカルノ・ハッタ国際空港へ到着した。


私達はチェックイン・ゲートで、両親の乗る飛行機を探した。ところが、両親の乗るべき飛行機が表示されていない。その代わりに、本日は運休、と日本の旅行代理店から連絡のあった便が、しっかりと表示板に載っている。さて、どうしたものか。インドネシアの空港は日本と違って、チェックイン・カウンターの前に荷物検査がある。つまりチェックイン・カウンターに行って、この状況の説明を受けるわけにはいかない。我々は対策を検討したが、取り敢えず早めにチェックインしてしまえば、いずれの便にも間に合うはずだ、という結論に達し、ここから先は両親だけで、冒険をお楽しみいただくことにした。


我々は別れを告げ、ゲートの外で両親の行動を見守っていた。どうやら無事にチェックインできたようで、両親は手を振りながら、搭乗口の方へと向かった。出発は何とかなりそうだが、問題はクアラルンプール空港での乗り継ぎである。私は両親の後姿を見ながら心の底で、両親がアムステルダムで発見されないことを祈った


さて、残された我々は、バンドンへ行く時にも使った鉄道を使って、義妹一家と共に、スラバヤへ向かうことになっていた。話によると今回の列車はとても美しい車両で、設備も最高、快適な旅が出来るそうである。スラバヤまで14時間というのは若干気になるが、そんなに良い設備であれば、長旅もそんなに苦でもあるまい。面白くなりそうだ。


私達は駅で軽食を買い込んで、彼らが来るのを待った。程なくして義妹夫婦と、長男のアリアン君がやってきた。時間はもう6時過ぎ。そんな時間にもかかわらず、相変わらず蒸し暑かった。私達はプラットホームに上がって、列車が到着するのを待った。一体どんな列車だろうな、と私はわくわくしながら待ち続けた。私は頭の中で、昔映画で見たヨーロッパ特急の雄姿を思い出していた。BGMはもちろん、Kraftwerkの名曲『Trans Europe Express』。当然だろ?そしてついに現れたその列車は、そのようなほのかなロマンティシズムを根底から打ち砕くのには、十分過ぎた


席に付いてから、義妹が私にしきりと謝っている。パンフレットで見た車両は、全然こんな風じゃなかったんだ、と言っている。私は、いや〜、全然問題ないっすよ、と答えた。そう答えるしかなかった。てかそういうのってさ、虚偽広告なんじゃないの?。「嘘・大げさ・まぎらわしい」の三拍子モロに揃ってるわけだから、JARO(日本広告審査機構)みたいな組織に、訴えたらいいんじゃないの?というと、そんなものはない、それどころかこの鉄道自体が国営なので、そんなクレームはハナから問題外、ということだそうだ。それは残念だ。取り敢えずはエアコンは付いている。しかしトイレは見ない方がいい、と言われた


14時間。私は覚悟を決めた。そして汽笛と共に、列車は出発した・・・。




 ↑よろしければ、是非

at 14:06, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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じゃがたら見聞録(6)〜異国でのお仕事・・・(10月20日)



10月20日、快晴。てか、暑いってば


何という爽快感。どうやら完全に治ったようだ。ああ、健康って有難いよね。見るもの聞くものが皆私の回復を祝福しているように思える。さあ心機一転、取り敢えず朝食だ。しかし油断は禁物。大事を取って今朝は、厚切りのトースト二枚とフルーツてんこ盛り、それにお茶だけにしておいた。


嫁は自分の荷物を取りに、朝早く自宅へ一旦帰った。さて今日は丸一日、予定は立ててはいないのだけれど、何をするかな。私はそれを相談すべく、両親の部屋に入った。そこで見たものは・・・、白目をむいてひっくり返ってるお袋


症状としては、昨日の私と全く同じであった。今朝方早くから始まった、激しい嘔吐と下痢、発熱の三点セット。お袋が言うには、どうやら昨夜、嫁の家で食べた八宝菜に似たインドネシア料理が原因らしい。しかも少量しか食べていないにもかかわらず。つまり、問題なのはそのもののようだ。つまり私がやられたのも、ドカ喰いが原因ではなかった、というわけだ。私にかけられた嫌疑が、ようやくここで晴れた。


・・・などと悠長なことを言っている場合ではない。明日親父とお袋は、帰国することになっている。こんな状態で帰国なんかすれば、問答無用で保健所送りである。てかそもそも、この状態で飛行機なんか乗れるのか?しかも明日はバンドンからジャカルタ空港まで、シャトルバスを利用することになっていた。所要時間は、約二時間半。このままではシャトルバスの行き先は、空港ではなく病院にでもなりかねない。


こうなれば、また点穴しかない。私は、昨夜私にやったのと同じ施術を、お袋に対して行った。数回施術を行うと、お袋はトイレへ駆け込んだ。トイレから戻ると、また寝込む。取り敢えずこのサイクルを、中に詰まっているものを全部排出するまで続けなければならない。そのうち嫁が帰ってきて、この光景を見ておろおろしていた。私は、大丈夫だから、と彼女に言い聞かせておいた。


というわけで午前中は、お袋の施術にかかり切りになってしまった。


昼近くになると、お袋の容態は安定してきた。明日は十分な時間がないので、出来ればもう一度昨日のバティック工房へ行って、バティックをお土産に買いたい、とお袋が言う。私は、大丈夫かな、とは思ったが、親父も行きたいと言うので、取り敢えず行くことにした。


工房へ着いた時にはちょうど昼時で、職人さん達は休憩の時間であった。急ぐこともなかったので、私達は彼らが休憩が終わるまで、外で待つことにした。親父はカメラを持って、どこかへ行ってしまった。私はデジカメで、周囲の写真を撮った。とても暑い日であった。職人さん達が帰ってくると、私はお土産用のバティックのデザインを、彼らと話し合った。製作には数時間かかるので、その間中私達がそこで待っている必要はない。嫁に後日取りに来てもらうことにして、私達は工房を後にした。ホテルへ帰ると、お袋はまたベッドへ倒れ込んだ。昼食はいらない、という。気持ちはわからんでもない。


お袋は放っておいて、私と嫁と親父とで、昼食はホテルの近くにある、『鳥元』という日本料理店で取ることにした。ここで食べた日本食に、私は救われた気がした。その時食べたのはざるそばとしそ巻きであったが、格別の美味しさであった。次回バンドンへ来た時は、ここはヘビロテだな。スタッフの皆さんも皆気さくで、とても感じの良いお店であった。バンドンへ行かれた際には、是非『鳥元』へ。


そうこうしているうちに、もう夕方になってしまった。嫁は、夕方からマッサージを呼んだので、申し訳ないけれども隣の部屋で待っていてくれないか、という。どっちにしろ私も、お袋の施術を続けなければならないので、そうすることにした。お袋の熱は、まだ下がらない。下痢も止まらない。かといってお袋はアナフィラキシーを持っているので、薬は一切使えない。使ったらどうなるか見当が付かず、そちらの方が恐い。いずれにせよ点穴しか、方法がないのである。しかし明日までに間に合うのだろうか。一抹の不安はあったが、不安に思っているよりは施術を行った方がよい。私は断続的に、施術を行った。


その間に私は親父と、また『鳥元』に行って、夕食を取った。考えてみれば親父と二人だけで夕食を取るなんてことは、今まであったかな?そういう例外的な「事件」が起こるというのも、旅の面白さの一つなのかも知れない。


午後8時。いい加減何だか、眠くなってきた。そう言えば昨日は熱のせいで、まともに眠れなかったものな。今晩は早めに眠るとするか。取り敢えずお袋に対する施術は一旦終了して、今夜一晩様子を見よう。もし明日も臥せっているようだったら、アナフィラキシーであろうが何であろうが、病院行きは避けられない。当然関空での隔離というオプション付きで。


私は両親の部屋を出た。そういえば嫁は、何やってんだろう?正味3時間もマッサージしてるのかな?どうやらマッサージ屋さんは顔見知りみたいだったので、話が弾んでいるのかも知れないな。私は部屋のドアを開けた。そこに見たものは・・・、白目をむいてひっくり返っている嫁。同じく食あたり。


結局今日は、朝から晩まで、点穴に明け暮れた一日であった・・・。




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じゃがたら見聞録(5)〜目くるめく情熱の夜は明けて・・・(10月19日)



10月19日、快晴。てか、苦しい


高熱のせいで、前後不覚になっている。昨夜はかなり激しかったらしく、まるで南極大陸と赤道直下を分刻みで移動しているかのような心境であった(要するに、猛烈に寒くなったり暑くなったりしたということ)。胸のむかつきも全然収まらない。当然激しい下痢。私は普段下痢というものを全くしないので、この下痢は恐らく、十数年振りであった。思い出したが、その時もインドネシアだったな。あれはバリ島であったが。私を含め足立ゼミ生約三名が帰国後空港内の保健所に連行されたのは、今となっては懐かしい思い出、・・・などど感傷に浸っている場合ではなかった。


この日の午前中は、妻の働いているインターナショナル・スクールにご挨拶に行く予定になっていた。ところがどうにもこうにも、体がいうことを利かない。妻が、あんた休んでなさい、私一人で行ってくるから、というので、有難くお言葉に甘えることにした。


妻が出て行ってからも、私はベッドでうんうんうなっていた。その脳裏には、インドネシアに来る前に偶然読んだ楳図かずお大先生の傑作、『漂流教室』のワン・シーンが去来していた。その中で、未来にタイムスリップした大和小学校の生徒達がペストにかかり、全滅しかかるという場面がある。こんな時こそ人間の想像力はたくましく羽ばたくもので、もしや僕もペストなんじゃないだろうな、と私は不安になった。しかし、ペストやコレラ、赤痢の類の伝染病だったら、僕だけではなく、その場にいた人全員が、すでに発症しているはずである。しかし、そんな風には見えない。やはり単なる食あたりなのかも知れない、と思ったら、少しだけ気が楽になった。


何はともあれ食あたりだとしたら、中に詰まっているものを全部排出しなければならない。私は自分に点穴を施すことにした。先ずは肝経を使ってショック症状を治め、脾経を使って内臓全体の機能を回復する。同時に小腸経・大腸経を使って腸を蠕動させて中にあるものを全部排出し、さらに膀胱経を使って熱を下げる。肝経の章門を点穴すると、奇妙な痛みが走る。やはりショック症状だな、と思った。横になった姿勢で腕骨・合谷を点穴した瞬間、ぐるぐるぐるぐるとものすごい音を立てて内臓が蠕動し始めた。私はトイレへ駆け込んだ。ベッドに戻ってまた点穴をすると、またぐるぐるぐるぐる。トイレへ駆け込む。こんなことを午前中ずっとやっていると、少しずつ体が楽になってきた。そのうち妻も帰ってきた。


午後は妻とお袋と義弟とで、市内にあるバティックの工房を訪ねることになっていた。妻と義弟は心配してくれていたが、お袋は「あんなにドカ喰いするからだ」と情け容赦のない批判を浴びせていた。はい、おっしゃる通りでございます。面目次第もございません。だが何とか動けそうだったので、そちらにだけは参加することにした。


バティックの工房はなかなかであった。あのような見事な染物はどうやって作るのだろう、と思っていたのだが、その工程を目の当たりにすることが出来たのはラッキーであった。しかし工房全体に漂うロウの香りが、私のくらくらした頭をさらにくらくらさせた。こういう時に限ってお袋はややこしい質問をするのだからたまらない。まああらかた予想された展開ではあったが。


この後同じく市内にあるアンクルンという民族楽器の博物館に行くことになっていたのだが、それだけはさすがに遠慮しておいた。こんな時にカンカラカンカラ竹の音を聴かされたら、それだけでトランスに入って帰ってこれなさそうな気がしたからだ。取り敢えず本命であったバティックの工房も見たことだし、途中で昼食を取って、ホテルへ帰ることにした。昼食を取った『寿司亭』のそばは美味しかった。私はホテルでしばらく休んだが、その時にはくらくら感を除いて、ほぼ回復していた。


夕食は妻のうちで取ることになっていた。しかし私には一抹の不安があった。グルメのパパさんのことだ。食卓には大量のインドネシア料理が並んでいるに違いない。しかしここで何か食べたら、恐らく元の木阿弥だろう。私は予防線を張ることにした。近所のスーパーで、そば、味噌汁を買い込んで、今晩は珍しい、日本食をご紹介します、と称して、どさくさにまぎれてそれだけ食べていよう。なかなか気を使うことである。


夕方彼女のうちへ行くと、案の定であった。もったいない話ではあるが、私的には、玄関先にすでに漂っているインドネシア料理の匂いを嗅いだだけでNGであった。体の中で番犬がワンワンやっている感じといったらわかりやすいであろうか。しかし皆さん私の状態は良くご存知だったので、今回は大人しくさせていただいた。この時飲んだ味噌汁は、モヤシが入っただけのシンプルなものであったが、とても美味しく感じられた。せっかくインドネシアに来たのに、ああ情けない。


外へ出ると、もう真っ暗闇であった。この辺りは街灯がないので、よけいに暗く見える。その中をチンチンチンチンと鐘を鳴らしながら、物売りが通っていく。私はベランダにあるソファーに腰掛けて、その様子を見ていた。夜風がとても心地よく感じられた。ところでこの辺は物の怪がよく出るらしいけれど、どこに出るんだろう?今夜は出てくれないのかな?まあいいや、取り敢えずどうやら、峠は越したようだ。ホテルに帰ってシャワーを浴びて、私は寝床についた。今晩は平和に眠れそうだな。


しかし私はその時、隣の部屋で起きていた異変に、全く気づいていなかった・・・。




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じゃがたら見聞録(4)〜イスラム教の婚礼、しかし何かがおかしい・・・(10月18日)




10月18日、快晴。てか、暑いんですけど


しかしこの暑さは、気温のせいだけではなさそうだ。どうも微熱がありそうな気配だ。疲れが出たのかな?わずか二日でか?まさか。胸もムカムカする。しかし胸のムカムカは原因は明らかである。昨夜のドカ喰いの報いだ。運悪く今日は婚礼の日(すごい言い方だが)。お昼は親戚、友人、知人一堂に会してパーティであるが、どうやら少々控え目に行動した方が良さそうだな、胃袋のためにも。私はそう考えた。


朝7時。メイクさんがやってきた。新郎である私は特にメイクをする必要もないので、礼服のフィッティングだけで後はすることがない。しかし嫁はそうはいかない。いくら不本意でも(笑)。部屋を追い出された私は、中庭で着付けが終わるのを待った。その間も胸がムカムカしていたので、私はお茶を飲みまくっていた。


結局私達は、スンダ風の民族衣装を身にまとい、イスラム式の婚礼に臨むことになった。嫁は巨大な付けまつげ、かつら、コルセットを装着され、見るからに動きづらそうであった。5月の着物以上のむごい仕打ち。よたよたと歩く嫁の後姿を見て、私はジャブロー攻略に向かうアッガイを思い出した。


式場へ行く直前、私は嫁から、本日の婚礼の式で私が言うべきせりふが書かれたメモをもらった。そこには結納金のことが書かれていた。しかもその結納金は100円になっていた。イスラムでは婚礼の席で、新郎より新婦のご家族に結納金を渡すことになっている。その金額は嫁が決めたようで、金額そのものはいくらでも良いらしい。しかし100円ってのはどうよ?何だかあんたを100均で買ったみたいじゃない。じゃあいくらにすんのよ?すったもんだの挙句、じゃあ45円はどうだ?45円は日本では「始終ご縁」と言って、eternal relationshipを意味するんだ。縁起が良い金額なんだぞ、と言うと、それでいいや、という話になった。しかし見方を変えれば、100円を45円に値切ったとも考えられ、可哀想なことしちゃったかなと思ったのは、日本に帰国してからであった。


実は当初は、当地での婚礼は予定していなかった。というのは私は修験道フリークの仏教原理主義者だし、嫁はバリバリの不可知論者だからだ(身分証明書上は一応イスラムとなっているが、それは書類上のことに過ぎない。向こうの身分証明書(KTP)には、そんなものまで記載されるのである)。しかし向こうの役場での手続き上の兼ね合いもあって、イスラムでの結婚式がどうにも避けられなくなった。向こうは日本のような政教分離どころか、完全に一体となっているのでややこしいのである。しかし残念ながら、ここでこれ以上のイスラムについての具体的な論評は避けさせていただく。なぜって、家を出た時に狙撃されたら嫌だから(笑)。というわけで一応私はインドネシアでは、敬虔なイスラム教徒となっている。ご家族のため、慈悲の心です、はい。御仏はきっとお喜びでありましょう。


取り敢えず婚礼は心配された自爆テロもなく(実はマジで心配していた(笑))、滞りなく終わった。ご家族を囲んでのフォト・セッションを終えて、披露宴会場である市内のレストランへと向かった。会場にはバンドも来ており、壇上にはキーボードがあった。誰かが、勇一はピアノが弾けるらしいぞ、と言い出し、当然の結末として、やれやれ、という話になった。しかし私はその時胸のむかつきが最高潮に達しており、そんな気分ではなかった。仕方がないのでお約束のGeorge Winstonを弾いたが、あまり受けなかった。それが終わると、歌え、とこう来た。私は、それなら、と往年のスネークマン・ショーに収録されていたインドネシア歌謡Dangdutの名曲「ブンガ・ダハリヤ(Bunga Dahlia)」をリクエストした。思えばSU'UDIAHさんが歌うこの曲が私とインドネシアの音楽との最初の出会いであり、そのいかがわしくもエキゾティックなアレンジに、当時中学生だった私は強い衝撃を受けたのだった。さすがスネークマン・ショー、ナイス・チョイスです。でもその場にいる人はこの曲を、誰も知らなかった。唯一ピアノのおっさんだけは知っていたので、色気も何もないが、野郎二人のデュエットでお茶を濁さざるを得なかった。


席に戻ったが、何も食べられる状況ではなかった。仕方なく私は、フルーツだけ食べていた。通訳のお姉さんが、「あら、今日はあなた断食なの?珍しいわね」と私に話しかけた。昨日の様子が様子だけに、奇っ怪に思えたのだろう。だがそのフルーツもまともに食べられない。この時、明らかに体調に変調をきたしている、と悟った。その間にも私は、参加してくれた人達と握手をしなければならなかった。恐らく私の笑顔は引きつっていたであろう。


そして本日の全ての行事を追え、私達はホテルへ帰った。ホテルへ帰ると私は、どさりとベッドへ倒れ込んだ。その時にはすでに、猛烈に発熱していた・・・。




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at 16:50, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, インドネシア見聞録

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