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ある精神科の先生との対話(23)〜街へ戻る

 ロードバイクにはまっておられるようで、なかなか面白いですね。

 僕も、自転車に乗るのは好きです。中学、高校はずっと自転車通学でしたし。最近は車ばかりで、ほとんど乗ったことがないのですけれどね。ヘキ地である鳥取の実家で自転車で行動するのは、今となっては少々骨が折れまして(笑)。

 東京でも、自転車での行動は悪くはないのでしょうけれど、置く場所がないですからね。ヘタなところに置くと、カゴにゴミを入れられるので(笑)。ですから、東京での移動は、ほとんど地下鉄等です。

 ただ、実家の近くの蒜山という山の周辺に、サイクリングコースがありまして、それは以前から気になっているのです。観光客が山中を自転車でツーリングしているのを見ると、いいな、と思います。次回帰った時にでも、挑戦してみようかな、と思っています(笑)。



 東京暮らしですか。なかなか快適ですよ(笑)。

 どうやら僕の中には、極端に相反する志向性が、同居しているようですね。一つには、徹底的に田舎であること、そしてもう一つは、徹底的に都会であること。

 この一つの要因は、僕が音楽等の、文化的な活動もやっているからだろう、と思います。

 東京を約5年近く離れていたのですが、その間非常に"寂しい"ものがありました。普通の人のホームシックのパターンとは、全く逆ですね(笑)。何しろ文化的なものが、ほとんど無い地域でしたから、それらに関してディスカッションしたりする人や場所など、皆無でした。

 そこで、そのような場所を作るきっかけになるかな、と思って、CGやアンビエント・ミュージックを利用したイベントを、何回かやってみたのですが、反応は今一つ。それどころか、こういうイベントを郷里でやったのですよ、みたいな話を東京ですると、是非東京でもやってくれ、という反応になるので、こりゃ本末転倒ではないかと。

 あのまま、継続は力なり、というわけで、様々なイベントを企画運営しても良かったのかも知れませんが、文字通り、砂丘に水を撒いているようなものでしたからね。意を決して、再上京してしまいました。

 やはり文化というものは、人の中で育まれるものなのだな、ということが、よく判りましたね。文化とは、一種のコミュニケーションの形態だと思うのですが、それが成り立つためには、発信だけではだめで、受信者の存在も必要です。そして発信者、受信者とも、ある程度の情報を、共有している必要がある。そのような記号論的なジレンマを、身をもって感じることになりましたね(笑)。

 しかしこれは、実は、禅の修業でもそうですね。功を身に着けるだけでは駄目で、それを社会に還元しなければならない。『十牛図』という禅の修行プロセスを表したものがありますが、その最後に描かれるのは、街の風景です。つまり行者は、街へと帰っていかなければならないわけです。

 これは、社会奉仕せよ、とのヒューマニズム的な発想ではありません。つまり、たった一人で深山に篭っている状態では、自分の功がどの程度なのか、判断が付きかねるのですね。最高の境地に達した、と考えるのは、もうその時点で魔境ですから(笑)。それを確かめるには、街へ戻って、"人"と交流する必要があります。この場合の"人"とは、ヴィトゲンシュタイン的な意味での"他者"です。「自分の言語を全く理解しないもの、例えば外国人」的な存在である彼らは、常に、自分の観念を超えたところにあります(そうでなければ、それは"他者"ではありません)。そのような他者との交わりの中で、常に禅定を保てるかどうか、あるいは一指禅功的な意味で言えば、常にベストな状態で功を他者に及ぼすことができるかどうか、それに、不断に挑戦し続ける必要があります。

 僕の場合、その場所が、東京であった、ということですね。

 今まででしたら、自分がベストを尽くせる場所は、関西なのだろうか、鳥取なのだろうか、それともやはり東京なのだろうか、との迷いがあったのですが、この数年間の試みで、前二者はやはり、限界があったかなと(笑)。従ってリソースは、今のところ、安心して東京に全投入できる、とまあ、今はこんな心境でしょうか。

 そういう意味でも、とても快適に過ごせていますよ(笑)。



 それでは、皆様にもよろしくお伝え下さいませ。

 有難うございました。



at 20:22, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(22)〜自分の実力をどのように判定するべきか?

 お変わりないご様子で、何よりです。

 ご指摘の通り、僕は、先月東京へ、再進出致しました。

 実を申し上げると、東京を離れている約5年間、東京在住の方々より、もう一度上京しないか、というお話を頂いていたのですね。もちろんその方々のほとんどはクライアントさんなのですが。そのお申し出をずっと断り続けてきたのですが、今後の自分自身の展開を考えた時に、やはり東京は外せないかな、と考えることが多々あって、今回意を決して、再上京することに致しました。

 その契機になったのは、ブログにも書いた、親父の胸部リンパ節腫瘍の症例でしたね。あの記事を書いたのは昨年末なのですが、結局あれから症状は、全部消えてしまいました。つい先月また抜き打ちで腫瘍マーカー検査を受けたらしいのですが、その数値が12月の再検査の時よりもさらに下がっていた、ということで、家族は一安心しているみたいですね。何よりも、夜中に激しい発作がなくなったというだけでも、有難いことだ、と母は言っていました。

 この話を東京の知人にしたところ、いろんなところでお話しになったらしく、再上京しないか、と言われたのは、それが直接の契機でもあったのですけれどもね。

 まあ僕自身の心情から申し上げても、東京の風土の方が肌に合っているような気がしますからね。やはり以前、7年間ずっと住んでいた、というのは、かなり大きいです。言ってみればその間に、自分のアイデンティティが形成された、みたいなところがありますからね。因みに、心理学的な意味で通常アイデンティティが形成される期間と言われる学生時代に過ごした関西は、全然ダメでした。3年でギブアップしました(笑)。

 今は千駄ヶ谷というところに住んでいるのですが、これがまた過ごし易い所で、新宿御苑や明治神宮、国立競技場に囲まれている関係で、緑が多く、空気もとても綺麗です。おまけに新宿、渋谷、代々木、原宿などには徒歩で行けますし、山手線内なので、都内の大抵の所は、約30分以内に行けます。

 因みにこの場所は、南青山在住の不動産会社社長兼仙人のS氏という方に探して頂いたのですが、奇妙な偶然が連続した挙句、契約も極めてスムーズに行きました。彼は、「いやいや、気功家が二人揃えば、こんなもんですよ」とおっしゃっていましたが(笑)。

 そんなわけで、折角東京に舞い戻ったのだから、今後はかつて以上に、いろいろなことに挑戦してみようかな、と考えているところです。



 さて、練功の方も順調にお進みのようで、何よりです。

 ところで、小周天、大周天と進まれてきたところで、特別な能力が開花したり、特別な体験をしたということが全く無い、とのご指摘ですが、こんなことを申し上げるとミもフタも無いのですが、では僕自身がどうなのか、と問われれば、僕もそうです、と申し上げる他無いですね(笑)。唯一の変化と言えば、気功施術が出来るようになった、ということだけでしょうか。

 逆に、例えばネットその他で、小周天や大周天がどーのこーのと言っていらっしゃる方々に、それが出来たら一体どうなったのか、というのを伺ってみたいのは、僕の方だったりしますね(笑)。

 つまり気功に関しては、かなりムード的な部分が専攻してしまって、その実際の姿というものが、十分に(健康的に(笑))把握されていないのではないか、という気がします。それこそもしかしたら、そのようなことを言っていらっしゃる方々に、先生がお会いになったとしたら、こりゃ入院の手続きをした方がいいかな、とお考えになる場合とかがあったりして(笑)。

 そこら辺の事情もあって、再度上京したのですね。つまり僕自身は、師匠に教えて頂いた点穴療法その他のお陰で、いわゆる気功施術が出来るようになったわけですが、他の人がどのように気功施術をしているのかは、全く知らないわけです。比較検討の仕様がない。それでは科学的な研究という点で、明らかに問題があります。かといって鳥取ではそのような、比較対照とすべき気功家にお目にかかったことが無い。

 僕はどちらかと言えば、自分で出来るようになったので、これでその技術はマスターしたぞ、と考えるタイプの人間ではないのですね。むしろそれを洗練させることの方に、興味があるわけです。

 それを考えると、一人での練功はどこでも出来ますが、「より」洗練させるということを考えれば、それは論理的にも、他者の存在が不可欠です。

 東京は、その点でも、申し分無いわけですね。



 この比較検討という作業は、科学的なスタンスを維持する上で、極めて重要なファクターだと思いますね。

 前回お会いした時に、先生のお宅で起こったような現象が、正にそれだと思いますね。もしかしたら今の僕には、いわゆる気というものが、かなり高純度で凝集している可能性がある。でもそれは、自分では全く自覚出来ないわけです。逆に、最近進歩がないよな〜、みたいに落ち込んでみたりして(笑)。

 ところが実際に、先生やF先生が経験なさったような現象が起こりましたよね。あんなことは僕自身も、想像もしていなかったわけです。

 その時に初めて、自分の実力がある程度、推量できるわけですね。

 僕が施術をするのは、正にこのためです。僕は、周囲のかなり実力のある方々には、積極的に施術をするように勧めています。というのはその方が、自分の実力が推量しやすいからです。

 僕の考えではその方が、効果的かつ科学的に、練功が進められるような気がしますね。

 ここで生じるのは、いわゆるフィードバックですね。逆にこれを教室の中で望むのは、とても難しいと思います。何故ならば教室では、基本的にコミュニケーションが、先生から生徒へという形で、一方通行になり易いですからね。これでは両者とも、フィードバックを得るのは難しいのではないか、と思います。

 僕が個人指導を謳うのは、ここに大きな要因があります。

 一指禅功では、施術が練功になる、とよく師匠が言いますが、それはこういうことだと思いますね。自分で気持ちよくなっているだけでは、自分自身の正確な変化を自覚するのは、極めて難しいわけです。でも何らかの形で他者を介入させた時、その変化が可視化される。それは例えば、親父の腫瘍マーカー値の推移、という形で、現れてくるわけです。

 要するに、チェックのやり方ですよね。これをきちんとしなければならない。これに失敗すると、良くて変化が自覚出来ない、悪くて頭の中で、呂洞賓を超えた大仙人になる。先生の出番ですね(笑)。

 僕が科学的なスタンスを標榜しているのは、このように、別に、東洋医学を啓蒙しようと考えているからではないのですね。そうではなく、比較検討する作業を繰り返すことで、自分の練功に、フィードバックさせているだけです。つまり、極めて個人的な目的からです。

 これは極めて容易かつ確実なスランプ脱出方法だと思いますので、お勧め致します(笑)。



 さて最後に、再度の練功のお誘いに関してですが、僕は要請があればどこへでも参上致しますよ。そこら辺のスタンスは、以前と同じです(笑)。ですからもしお望みであればまた、お気軽にお申し出下さい。

 因みに東京-博多間の方が、浦安-博多間よりは、時間はかからないみたいです。すごいところに住んでたな、と我ながら思いますけど(笑)。

 先生ももし東京へお出での際は、是非お声をお掛け下さい。



 というわけで、皆様にも宜しくお伝え下さいませ。それではまた!



at 21:11, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(21)〜命功と性功

 無事に長芋が届いたようで、安堵致しております。

 ここ鳥取県中部は長芋が名産でしてね。県外の方にお送りすると、結構喜んで頂けます。

 ご賞味頂けたみたいで、嬉しく存じます。

 また、長期間に渡り、ミルトン・エリクソンの催眠療法のビデオをお貸し頂きまして、真に有難うございました。並びに、お返しするのが大変遅れまして、申し訳ございませんでした。

 全巻を拝見した率直な感想を申し上げますと、エリクソンの催眠療法のアウトラインを大雑把に掴む意味では、大変参考になりました。

 だとても残念に思った点がありまして、それは、参加者の顔が、全てモザイクになっていたのですね。

 僕の考えるに、催眠療法の実践において最も重要な着眼点は、被験者の表情が、誘導によって、どのように変化していくか、だと思うのですが、その辺りが、全く把握出来ませんでした。

 昨今のように、あまりプライバシー、プライバシーと言い過ぎるのは、学問の啓蒙や発展を妨げてしまう部分があるかも、と思わされました。

 こうなったら自分の眼で確かめるしかなさそうなのですが、そこまでは今のところいいかな、というのが、今の心境です(笑)。

 何はともあれ、有難うございました。



 練功の方も、順調に進んでいらっしゃるようで、何よりです。そのままどんどんお進みになられたら宜しいかと思われます。

 ところで、ご指摘のあった、気の充実が精神にどういう影響を与えるかについては、ご自身でははっきりした効果は確認出来ていない、という点に関しまして、僕の意見を申し上げたいと思います。

 率直に申し上げて、僕の経験から申し上げると、気そのものの充実が精神に影響を与える、ということは、通常の練功では、ほとんど無いと思います。

 これは以前、命功と性功に関して申し上げた通りです。書物やインターネットでは、気功をすることで心身ともに健康になれる、誰もがハッピーになれる、といった類のことが、良く書かれていますが、このような表現は、容易に誤解を招く恐れがあると思います。だから気功が、神秘主義の範疇を脱却出来ないのだ、というのが、僕の意見です。

 僕の考えでは、命功は命功、性功は性功であり、両者は全くの別物です。勿論、それらの両方を上手に修めた方が達人として歴史に名を残している、ということはありますが、それは正に両方を収めたからという理由ですし、あるいはその人物が単に天才であった、という理由以外の何者でもない、と思います。

 従って素人が、その両方の要素を持たない気功をすることで、そのような心身共にハイレベルな状態になるどころか、結果的に魔境に陥った例が、何と多いことか(笑)。

 これは、スポーツと全く同じですね。あるスポーツでずば抜けた才能を持った人がいるとしても、そのことと、その人が人格者であるかどうかは、当然のことながら、全く別の話です。むしろ、そうではない人が多いのではないでしょうか(笑)。

 要するに、レベルの問題だと思います。通常の練功が精神に与える影響としては、物事に動じなくなった、などといった点が普通考えられるものであって、それ以上でも以下でもない。ですから、もしその気の充実が、例えば仏教で言う『悟り』などといったものにどのように影響を与えるか、という話になるとすれば、それらは全く別物であり、それを求めるのであれば、別のプロセスが必要だ、というのが、僕の考え方です。以前にも申し上げました通り、だからこそ仏陀は、ヨガを放棄したのです。

 もっとも、目下の僕の興味は、このような心のメカニズム、端的に言えば、認識のメカニズムにあるのですが。気功は最近、食傷気味だったりして(笑)。



 あの高良大社奥の院は面白かったですね。僕もあのような経験は久し振りだったので、とても面白かったです。

 ところで奥の院と申せば、9月に高野山の奥の院へも行ってきました。これはY君のエスコートです。彼が、「あそこの奥の院に行くと、異常なものを感じるんですが、中原さん行ってみませんか?」と言うものですから、早速二人して行ってみたのですが、確かに、奥の院の本堂では、強い熱波を感じました。特に、空海の廟の真正面に立った時などは、凄かったですね。熱波で頭突きを喰らっているような感じでした。

 やはり奥の院には、奥の院たる由来があるんでしょうね。

 現役の呼吸器外科医がこんなこと言っているんですから、指導する方としては、彼が仕事場から排斥されないように願うばかりなのですが(笑)。



 それでは寒くなって参りましたので、どうか皆様お体大切になさって下さいませ。



at 11:13, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(20)〜霊感、解離性同一性障害、そして鬼神を使役する諸法試論

 ご無沙汰申し上げております。
 
 お元気ですか?と申し上げたいところですが、何やらお仕事の上では大変なご様子、お見舞い申し上げます(苦笑)。

 なるほど、DID(解離性同一性障害。Dissociative Identity Disorder)というのは、非常に興味深い症例ですね。以前僕の霊感系の知人に関して、解離性人格障害かも知れない、とのご指摘を頂き、非常に考えさせられるものがありましたが、それとは比較になりそうもありませんね(笑)。

 でも確かにご指摘の通り、古来より巫女や悪魔憑きと呼ばれてきた現象のかなりの部分は、この解離性人格障害と大いに関係があるのではないか、と僕自身も考えているところです。今日では、霊感がどうのこうのという話をされると、この人もしかして人格障害があるのかな、と考えるようになってしまったのは、ある意味悲しいことなのかも知れませんが(笑)。

 因みに、今回の中国行きでご一緒させて頂いた南青山の不動産会社社長に、『神との対話』というシリーズ物の本をご紹介頂きました。まだ読んではいないのですけれど、聞くところによると、著者が、最初は神に自分の人生に対する不平や不満を書き連ねていたところ、途中から自動書記のような状態になり、知らず知らずのうちに本が出来上がっていた、ということらしいですね。

 彼はかなりのめり込んでいらっしゃるご様子ですが(本当のことを言えば、彼の方がよっぽど神秘家的な生活を送っていらっしゃるのですけれど(笑))、実はこのような現象は、割とよくあるんですね。例えば、教育学者のウィン・ウェンガーなどは、このような自動書記という現象を、積極的に自分の体の中で誘発させ、それを如何に才能開発につなげていくか、という、受動的ではなく、能動的かつ実践的なテクニックを、自著で紹介していたりもします。

 またこのようなテクニックを更に発展させて、複数のパーソナリティを自分の中に意図的に発生させて、彼らにアイディアをもらったりする、みたいなテクニックも、彼は紹介しています。自己啓発本の分野ではパイオニアであるナポレオン・ヒルなどは、このテクニックを多用していたようですね。

 ところがこれと非常に似通ったものは、大昔から、古今東西の魔術の中にもある。道教では『十二神将の法』、陰陽道では『式神の法』とか言われるやつですね。

 そんなわけで、精神医学と才能開発、魔術は、お互いに密接な関係にある、というのが、僕の考え方です。

 因みに僕自身も、これらの技法は多用します。結構効果があるんですよね(笑)。

 ですから、先生が担当なさっているクライアント諸氏も、僕としては非常に興味を掻き立てられますね。治療なさる先生は大変でしょうけれど(笑)。



 中国行きですか。いやはや大変でした。

 一番考えさせられたのは、一指禅功に関する伝承の問題ですね。どうやら、いまだに伝承者は決まっていないらしい。さもありなん、という感じですが。

 つまり、一指禅功に関しては、その全てを知っているのは、相変わらず、劉先生ただ一人、というわけなのですが、これが僕に、非常に疑問を抱かせるのですね。

 例えて言えば、これは、極めて特殊なOSを巡る状況のようなものですね。「すごい」のはわかる。でもその使い方が一般的なものではない、極めて特殊なものであるとしたら、実用性という意味では、Windowsには到底勝てない。そんなものを追求してどうするのか。

 でも、これが禅を学ぶ道なのかも知れませんね。僕達は、停滞ではなく、前進しなければならない。

 まあ、良い勉強になりました。

 そうそう、個人的な成果の一つとしては、劉先生に頚椎を調整して頂いたのですけれども、その後全身への気の通りが更にスムーズになったような気がしますね。赤陽先生はそれを脳下垂体からのホルモンの分泌と関連させて解説されていましたけれども。練功の時は若干あごを引く、というのは、納得のいくところです。



 というわけで、今回は手短ながら、帰国のご挨拶とさせて頂きます。道中具体的に何があったかは、機会があればお話させて頂きます。本当に大変でしたから(笑)。

 それではまだまだ残暑が厳しい日々、なおかつクライアント諸氏とのご格闘が続くとは思われますが(笑)、くれぐれもご自愛下さい。
 皆様にも宜しくお伝え下さい。

 それではまた!



at 11:05, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(19)補足〜死について

 本文の中で、私は、「プラグを外された状態」というものが、ゾクチェンのメディテーションの実践によって、おぼろげながら理解出来るようになった、と述べました。

 しかしそれは、全てではありません。

 実はあの御茶ノ水のミスター・ドーナツで、私の心で何かが起こった時、私は、この感覚は初めてではない、と、うすうす感じていました。

 ではそれ以前に、私はどこで、そのような感覚を経験していたのでしょうか。

 それは、1995年の、阪神・淡路大震災の時です。

 私は当時銀行員だったのですが、あの時私はすでに、出社の準備をしていました。というのも、私が住んでいた東灘区にある芦屋寮から勤務先だった箕面支店桜井出張所までは、電車で約2時間近くかかっていたからです。

 私はいつも通り午前5時半に起床し、洗面所に向かいました。

 そして午前5時46分、閃光と共に、地震が起きました。

 その時私の口から突いて出たのは、「神様!」という言葉でした。しかしその直後、別の考えが浮かびました。「いや、恐らく神は、"私を助けてはくれない"」。だとしたら自分で、何とかするより他はない。取り敢えず窓ガラスのそばから離れなければ、こいつが砕けて降りかかったら大怪我をする。ものすごい揺れの中で私はそう考え、這いながらそこを離れました。

 私はこの時初めて、間近に迫った自分の死というものを、強烈に意識しました。

 外へ出てみると、周囲の風景は、完全に変わっていました。あんなに頑丈そうに見えた阪神高速が、アメのようにへしゃげて、根元から倒壊していました。

 私はその光景を、放心状態で眺めていました。

 奇妙なことにこの感覚こそが、ミスター・ドーナツで感じたものと、そっくりだったのです。



 本文の中で私は、現実/仮想の二元論について考察しました。
 
 しかし、誰にとっても現実以外の何者でもないものが、この世にはただ一つだけ存在します。

 それが、自分の死です。

 死ぬ時、私たちはそれを、自分自身のものとして受け入れなくてはなりません。誰もその代わりをしてはくれません。

 その時私たちは、走馬灯のようにして、自分の人生を振り返るといいます。それは当然でしょう。何故ならば、それしか出来ないのですから。

 その瞬間に、自分の人生は充実したものだった、と、今のあなたは言うことが出来ますか?

 私たちが生きているうちは、もしプラグが外されたとしても、また別のプラグを差し込まれるだけの話です。それが人生というものです。しかし、そのプラグが永遠に外されてしまうときは、必ず来るのです。

 その時あなたは、その事実を、従容として受け入れることが出来ますか?

 これを意識したとき、マトリックスを対等のものとして見る、という、もう一つの意識が生まれます。

 ドン・ファンは、「死はアドバイザーなのだ」とカスタネダに語ります。それは常に、お前について回っているのだと。

 しかしそれは、恐怖の対象ではなく、アドバイザーなのです。

 密教でも同じで、人工的な死に近い状態を行者に体験させるという訓練があります。それは、仮死状態での変性意識状態をもてあそぶためにおこなわれるのではありません。そうではなく、死を身近なものにさせる、つまり、アドバイザーにするためのものなのです。

 よく、ニア・デス体験をした人は人格が変わる、といいますね。これはその体験の中で、特定の存在に会ったからそうなるのではないと、私は思います。そうではなく、まさにニア・デス体験そのものによって、プラグが外されるのです。

 それを経験してしまうと、その前と同じ人格であることは、およそ不可能です。

 死を意識すること。自分の死を、アドバイザーとすること。

 その瞬間、人は変わります。



at 17:01, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(19)〜『マトリックス』と仏教思想

マトリックス 特別版
マトリックス 特別版
キアヌ・リーブス

 暑い日が続いておりますが、如何お過ごしでしょうか。毎日のNHKニュースで「福岡の最高気温は・・・」とよく引き合いに出されるのを聞くにつけ、さぞかし、と想像しております(笑)。くれぐれもご注意下さい。



 さて、練功の方も順調なご様子ですね。最近は気の"流れ"があまり感じられなくなっている、というご指摘ですが、正に僕も同じですよ(笑)。考えてみると、気の"流れ"が自覚できていたのは、僕の場合はかなり初期でしたね。いわゆる小周天と呼ばれる、督脈から任脈へと流れるルートがかなりヴィヴィッドに感じられて喜んでいたものですが、全部繋がったかな、と思った途端、その行く先がわからなくなってしまいました。

 おかしいな、と思って、気の流れに関する資料(いわゆる"子午流注"などを含めて)を調べてみると、その流れの順番や時間などが厳密に規定されているにもかかわらず、僕にはそのような自覚はないものですから、こりゃ練習のやり方が間違っているのかも知れないな、と思って、スランプになったりもしました(笑)。

 この点でも、以前から申し上げているように、僕の場合非常に助けになっているのは、施術そのものですね。人と相対することで、逆に、自分の持っている力量が、推測できるわけです。そうではなく、自分だけで練習を進めていった場合、自分の気の力と単なる妄想とをどうやって区別するのか(笑)。そういう意味で、このようなフィードバックが容易に確認できる、という点で、僕の場合気功を選んだのは、ベターな選択だったような気がします。

 また、そういう意味でも、先生のご自宅でのセッションは、とても示唆的でしたね。あんなのは横浜教室でも見たことないですから(笑)。そのような経験を積むことが、間接的に自分の力を推し量らせる要素となっているわけです。そのような機会を与えて下さった先生には、本当に感謝しております(笑)。

 ですから先生の場合も、そのような気の具体的な流れがおわかりにならなくなっても、一向に差し支えないと思います。もっと言えば、それは、意念などを使わなくても自動的に練習が進むレベルに到達された、ということですので、そのままどんどんお進みになって下さい。その内電車の中で、隣の人がいきなりトランスに入ったりする、みたいなことが頻発してきますよ(笑)。



 なるほど、F先生の状況、お察し致します。でも、予想通りでしたね。実際にお会いする前から、たぶんそういう方ではないかな、と想像していたので、やはりと言うべきか(笑)。

 何故ならば彼女の問題は、正に、多くの気功家がぶつかる問題だと思われるからです。

 たいていの気功関係の本には、「命功」と「性功」という言葉が出てきます。前者は体のトレーニング、後者は心のトレーニングのことで、両者は気功の練習の中では正に車の両輪であって、両方並行して収められなければならない、と書かれています。でも、こう書かれてみたところで、現実のイメージが沸かないので、単なる知識で終わってしまっている、というのが、大抵の気功に携わる人の現状だと思います。あるいは、良くてせいぜい、「文武両道」でしょうね。そんなことはわかりきったことだ、で済まされてしまうのではないかと(笑)。もう少し丁寧な、現実に即したわかりやすい説明が欲しいところだと思います。

 僕の考えでは、これに対する説明は、二つのレベルがある、と思われます。

 先ず初心者向け。気功のトレーニングを積めば、身体状況が改善されます。俗っぽく言えば、健康になれるわけですね。これは当然の結果です。何となれば、全身のリラックスを達成して諸組織の緊張を改善することで、その機能回復を図ることが可能だからです。しかし、その変化は、あくまで身体の内部に限定されます。ですから、その次に必要になってくるのは、身体外部からやってくる不測の事態にどうやって対処するか、という問題です。例えば、気功をやることで健康になったのに、交通事故に遭ってしまった、というのでは困るわけです。そこで、そのような不測の事態に対処するための直観力のようなものを養う必要があります。これが「性功」の部類に入ると思います。

 ですから、この点で申し上げれば、身体のトレーニングと心のトレーニングとは、厳密に分けて論ぜられるべきです。よく気功をすれば、心身共に健康になる、と言われたりしますが、これは、容易に悪質な誤解を招く、極めて危険な言い方だと思います。たとえそれが営業目的ではあっても(笑)。僕の考えでは、この両者は峻別されるべきです。気功をしたところで、身体の状況は改善されますが、心の状況までは改善されない、と仮定した方が、余計な混乱を招かないのでベターだ、と僕は思いますね。あるいは、百歩譲ってそれが可能であるとしても、その両者を共に達成できるか否かは、指導者の見識と力量に寄ると思います。一般的な指導者では、まず不可能です。以上が「命功」と「性功」に関する、初心者向けの説明ですね。

 そしてもう一つが、正にF先生のような、元々気功施術が出来る方向け、言わばプロフェッショナルな方向けの説明です(笑)。率直に申し上げてF先生の場合は、治してあげよう、という意識が強過ぎるのだと思います。それは彼女の場合は、クライアントさんの症状を何とかしてあげたい、という彼女の優しさから来ているので、それは大変に結構なことだとは思うのですが(そうではない連中が多過ぎますからね(笑))、あまりそのような気持ちが強過ぎると、施術する方の心身が持ちません。言い方は悪いですが、キリがないですからね。

 この辺は前回お会いした時にも皆さんで若干議論したのですが、正にそういうことだ、と思いますね。

 一般的に"邪気を受ける"という場合は、一つはこのような状況を指すと思います。もう一つの場合は、これもお話したことではありますが、僕があるガン患者の奥さんの隣に坐るとその方から冷たい風が吹いてくるのが感じられて、その直後風邪を引いてしまったことが二回あった、というケースについてお話したと思いますが、この場合は、この二回の失敗の後(笑)、その方のそばで練功する時には站椿功に切り替えることでその状況を克服したように(つまり単純に、こちらの方がより強い気を発生させるということですね)、何とかテクニカル的に処理することが出来るのですが、前者のようなメンタルな要素が作用する場合ですと、その対処は若干難しくなるように思われます。

 ここで重要になるのが、「性功」というわけです。一つ目の、単に直観力を鍛える、というものよりも、さらに重要な「性功」ですね。

 要するに、自由に切り替えられるだけの柔軟な心を持っているかどうか。重要なのはこのことです。つまり、Fさんの場合で申し上げれば、特定のクライアントさんに固着しないことですね。

 とは言ってもこれは、難しい人には難しい。そのためのトレーニングとは何が考えられるか。

 これは僕の経験ですが、僕の場合とても役に立ったのが、仏教の考え方、そして、それを徹頭徹尾理解させるために行われる、ゾクチェンの練習でした。

 以前申し上げたことですが、僕は赤陽先生のところに入門する数年前、中沢新一先生を直接中央大学に訪ねたことがあります。そして彼に、ゾクチェンの修行をしたいのだが、その場合はやはりチベットへ行くべきか、と尋ねたところ、即座に止めておけ、と言われました。その当時の暴走しがちだった僕はその言葉を聞いて、がっかりしたようなほっとしたような複雑な心境でしたが(笑)、しかしその時に忍び込んだ先生のゾクチェンに関する講義を聞いた後、しばらくこれを自分なりに実行してみた後でもう一度この問題を考えてみても無駄ではあるまい、と考えて、自宅に帰った後約三ヶ月、実行してみました。

 そしてある日僕は、御茶ノ水のミスター・ドーナツで、一人コーヒーを飲んでいました。店内は大学帰りの学生達でごった返しており、正に喧騒の中でした。その時、不思議なことに気づきました。僕はふと、誰もいない郷里大山の奥深い山道を歩いているような心境に襲われたのです。僕の心は、その山中のように、完全に静まり返っていました。この時僕は、このミスター・ドーナツの店内の喧騒と、大山の静寂とは、認識の対象という点で、実は全く同じものなのだ、と気がついたのです。その瞬間、僕の中で突然何かがガラガラと音を立てて崩れました。世界が突然シフトしたのです。

 この後僕は、他人の未来が見えるようになりました。

 ところが、事態はそれで丸くは収まりませんでした。つまり、当然のことではありますが、見えるのは他人の幸福な出来事だけではなく、不幸な出来事もです。周囲の人の受験や就職の失敗、離婚、全て当たりました。最悪の場合、僕の予言通りに、二人の方が亡くなり、一人の方が半身不随になりました。

 これは僕にとっては、ショック以外の何者でもありませんでした。この時、このように未来を読むだけでは駄目で、もし誰かがそのような不幸な道に陥ろうとしているのが見えるのだとすれば、それを止める方法を探さなくてはならない、僕はそう思ったのです。

 これが僕が気功の勉強を始めた、本当の原因です。

 実はこのことに関しては、直接赤陽先生とは話したことはないのですが、入門当初に、間接的に指摘されたことがあります。彼は言いました。「あんたは天目が開いている。今まで何をしてきたのかは聞かないが、それは極めて危険なパターンだ」と。

 このように、先生が言うところの「天目が開いた」状態に、最初は戸惑いを覚えたわけです。恐らくF先生の場合は、この時の僕のような状況だと思いますね。つまり、元々天目が開いているので、その人の運命だったり、考えていること、あるいは症状が、手に取るようにわかる、しかしその次に、そのような状況を何とかしてあげよう、と一生懸命になるものですから、結果的にご自分がダメージを受けてしまう。赤陽先生が言っていた「極めて危険なパターン」とは、このことだと思います。

 ところが、これはそのような経験を経てきた今だからこそ思うのですが、実はここにも、二つのレベルがあると思います。

 つまり、普通の人のレベルから一段シフトして、他人の状況がよりよくわかるような状況になったとしても、そこでとどまっては、返って危険なのです。それをさらに乗り越えなければならない。気功の練習中にどのような現象が現れるようになっても、決してそれに執着してはならない、と言われるのは、こういう意味です。このプロセスは、実は無限なのです。何事にも執着しないこと。これを端的に示す言葉が、仏教にはあります。つまり、「空性」です。空とは、物事には実体はない、という意味です。これを単に哲学として捕らえるのではなく、気功に携わるものは、それを"実践"していかなければなりません。仏教でいう空性は、どこまで行っても空性なのです。そのようなレベルに至ったとしても、さらにそれさえも空性であるとして、乗り越える必要があります。この心の動きを臨界点まで進めた時、心に一切の執着はなくなります。恐らくこれが、仏教で言う「悟り」です。そして私たちは、この心境で、物事に当たらなければならないのです。

 それは、単なる思弁ではなく、そうでなくては我々の場合、危険だからです。

 このことを、先生にお勧め頂いた『マトリックス』で論じてみたいと思います(笑)。主人公ネオは、モーフィアスに導かれて、今まで自分が現実だと思っていた世界が、実はコンピュータによって生み出された仮想世界だと知ります。そして彼の導きによって見せられた本当の世界の中では、人間は機械によって発電所にプラグで繋がれた状態で"栽培"されるのであり、その時にコンピュータのプログラムによって生み出される夢の方を人間は、現実だと認識しているのです。逆に、プラグを外された人間が生きる"本当の世界"では、機械にとって本質的に"アノマリー"な存在であるそのような生身の人間と機械との、熾烈な戦いが繰り広げられています。そしてネオは、その戦いに終止符を打つ"救世主"として人間世界に受け入れられる・・・。モーフィアスは言います。「現実としか思えない夢を見たことがあるか?その夢が覚めなかったとしたら、君はその夢と現実とを区別できるか?」。これは正に、仏教の言葉そのままです。

 ところが、実はここに困難があります。

 百歩譲って、ネオが、"アンダーソン"であった世界が仮想世界であったとして、今度はその世界から離脱した人間が機械と戦う世界が"現実"であるという保障は、一体どこにあるのでしょうか?それでさえもが夢であったとしたら?例えば第一作で、サイファーがモーフィアスに対して反乱を起こしますね。その時彼は、「モーフィアスは俺を自由にしたというが、この船の中の生活のどこが自由なんだ?俺はマトリックスに繋がれる方がましだ!」と叫びます。この言葉は、それ以降の物語の展開とは裏腹に、極めてラディカルな問題を露呈させてしまっています。つまり、どれが現実で、どれが仮想である、というのは、我々は積極的な意味で定義づけすることが不可能なのです。夢から覚めた現実が、実はもう一つの夢だったら?マトリックスから脱出したと思ったら、そこが別のマトリックスの中だったとしたら?これは哲学的な議論ではなく、現実に中東の状況を見れば、より明快ですね。イスラム教徒にとってはキリスト教世界は現実ではなく、打ち倒すべき仮想現実でしかありません。当然キリスト教徒にとっては、その逆です。この両者が相対した時、戦火は避けられません。そしてお互いに、「俺は社会を守るために、人々を解放するために戦っているんだ!」となってしまいます(余談ですが、実際この映画が中東で公開された時、エジプトのあるメディアは、この映画に出てくる"ザイオン"という人類最後の都市の名前を引き合いに出して、これはシオニズムを喧伝するための映画だ、としてクレームをつけたそうですが、これは言い得て妙たる指摘だと思います)。

 僕ならこう解釈します。人々が普通の生活をしている「と思い込んでいる」仮想世界があって、それがマトリックスである、しかし、そこから離脱した世界もまた、実はマトリックスなのです。マトリックスは、「テレビの中にも、教会の中にも」至るところにあります。そしてそれは、二つどころではなく、無限に(あるいは、全ての現実意識を持つ生命体の数だけ)あるわけです。我々はその虜に過ぎない。これは正に、かつてフランスからスタートした、「構造主義」の認識ですね。しかしこの地点で残念ながら、映画の『マトリックス』は踵を返すわけです。ですからこの発想を、旧来の"現実/仮想"、あるいは"人間/機械"の二元論に帰着させてしまったウォシャウスキー兄弟が、ボードリヤールにアドバイスを求めても、断られるのはしょうがないのかな、と思ったりして(笑)。でもこのパターンはかなり見られますね。例えばドゥルーズ=ガタリの言う"リゾーム"を、単なるヒューマニズムに帰着させてしまっている連中とか。

 ですからこれは、現実世界に違和感を抱いて生きている人が、必ず陥る困難ですね。彼らはそうではない"本当の世界"を"仮想"して、それに近付こうとして、ヨガや気功や『オーラの泉』(笑)に手を出す。いわゆる神秘主義ですね。ところが実は、古今東西の本家本元たる神秘主義を詳細に検討してみると、良質のものであれば、必ずそれを乗り越えようとする教えが組み込まれているのに気付きます。この点に関しては、中沢先生が、『チベットのモーツァルト』(講談社学術文庫)の中で、神秘主義の最高峰と目される(笑)カルロス・カスタネダの『ドン・ファン・シリーズ』を題材に、極めて明快な解説をされています(前掲書「孤独な鳥の条件」)。禅で言えば、「仏に遭うては仏を殺し、祖に遭うては祖を殺し」、あらゆるマトリックス=構造を拒否して、宙ぶらりんの状況に身を置く、あるいは、全てをマトリックスとして見る、そのような状況で培われるフラットな視点(ドン・ファンはこれを、ズバリ、「見ること」と言っています)を、常に失わない、ということが重要なのです。

 これを理解するのが、仏教の至上命題です。そしてこの時、本当の意味での完全なリラックスが、達成できます(・・・と同時に、逆にこの状態が完全に理解できれば、人の運命を読み取るのは、極めて簡単に出来ます。何故なら、ほとんど全ての人は、マトリックスの住人であり、インストールされたプログラム通りにしか生きることが出来ないからです)。

 そのような議論を踏まえた上での結論として、"邪気を払う"あるいは"邪気から身を守る"最も効果的な方法は何か、と問われれば、それは、「逸らす」ことです。これが最も効果的で、かつ簡単です。こちらのパワーを増強させることで相手を跳ね返す、という方法もありますが(先にも僕のケースで触れましたね)、そのようなパワー対パワーの戦略は、より強いパワーに対しては、効果がありません。人間はパワーでは、機械に勝てない(笑)。別の戦略が必要です。

 ここら辺は、太極拳の極意でもあります。太極拳には、「双重の病を避ける」という言い方があります。両者ががっぷりと組み合っても、それは体力勝負でしかなく、必ず強い方が勝ちます。しかし、それは武"術"ではないわけです。「逸らす」こと。それは相手の力だけではなく、自分の意識に対してもそうです。マトリックスからマトリックスへと、軽々と移動すること。

 要するに、執着しないということです。

 これに関しては、次のような中国の禅の逸話が、参考になるのではないでしょうか。



 ある街の路地に、かなり気性の荒い暴れ馬がいました。その馬は、近づく人を誰であろうが蹴ろうとするので、近所の人はとても困っていました。

 その時、ある禅の大家だと目されている僧が通りかかりました。近所の人は、「あの坊さんは何でも、禅の大家だという話じゃないか。あの人がどうやってあの暴れ馬がいる路地を通るか、一つ物陰から見物してやろうぜ。」村人は物陰から、固唾を呑んで見守っていました。

 果たしてその僧、路地に入ってその馬を見つけると・・・、黙って引き返して、他の路地を行きました。



 正に禅の大家。このようなスタンスで臨まれると、ベターかも知れませんね(笑)。



 今回も、教材を頂戴致しまして、真に有難うございます。早速参考にさせて頂きます(笑)。

 今週末、中国へ行ってきます。赤陽先生にも会うので、ちょっと内勁一指禅功と、劉先生の一指禅功の相違についても、尋ねてみますね。そこら辺は学術的にも、興味のあるところですし。

 また今回の武当山は、レア道教とレア太極拳のメッカということですので(笑)、怪しげなアイテムがあったら仕入れてこようかな、と思っています。

 劉先生とお会いするのも、久々ですしね。前回はかなりおとなし目だった僕ですが、今回は攻撃的に行こうかな、と思っています。禅の王道だったりして(笑)。



 そんなわけで、F先生にも宜しくお伝え下さい。常に心身共に、リラックスが肝要ですよ、と(笑)。



 それではまた!





at 11:09, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(18)〜クンダリニと周天功、ナディと脈

 お酒が届いたみたいで、何よりです(笑)。

 先だってお邪魔した際に大変お世話になりましたので、何かお礼を、と思っていたのですが、いろいろ考えた挙句、お酒にさせていただきました。近所に有名な地酒屋さんがありましてね。これなら先生にも喜んでいただけるのではないか、と思いまして。

 ただ何分、僕自身があまりお酒をたしなむタイプではないものですから、そこは少々ズルをして、うちの店のお酒好きのスタッフにヘルプをお願いいたしました。彼女も、先生に喜んでいただけた、と報告したところ、とても喜んでいました(笑)。

 そんなわけで、ささやかながらお礼に代えさせていただけると、嬉しく存じます。



 ヨガ行の方も順調なご様子で、何よりであります(笑)。

 実は前回いただいたメールの中で触れられていたクンダリニに関するレポートに、僕自身も久々に、大変心を動かされました。そこで、前回にも若干触れましたように、最近、気持ちを仙骨、あるいは長強付近に置くようにしてみたところ、自分の中で、かなり強い気のルートが、形成されてきたように思います。

 実はこのルートは、元々僕の中にもなかったわけではないのですが、それが今まで以上に強く自覚できるようになったという感じですね。それに伴って、空中を浮遊しているような感覚が得られるので、面白いものですから、結構最近は病み付きになっています(笑)。

 ただ、これがヨガでいうクンダリニかどうかは、少々疑問なのですね。と申しますのは、それは、ヨガ行者の言葉を額面通りに受け取れば、という条件付きですが。

 例えば先生は、成瀬先生が書かれた本の中には、クンダリニが上昇するのは脊髄だ、と書かれている、とおっしゃいました。しかし、僕が感じる強いルートは、脊髄ではないんですね。もちろん脊髄付近にも熱の流れを感じますが、それは体感的に言えば、その大元の強いルートから派生した別の熱の帯が、脊髄、あるいは気功で言うところの督脈と任脈にも流れ込んでいる、といった感覚に近いですね。だとすれば、これはクンダリニではない、ということになります。

 ところが、同じヨガでも、別の見解もあるようです。例えば、日本の宗教学者で、僕が最も影響を受けた中沢新一先生は、『チベットのモーツァルト』(せりか書房、1983年)の中で、次のように記述されています。



「・・・このようにして観想される「中央管」の位置は、生理学的に見てそれがじっさいに走っていると思える脊椎線と大きいズレをもってしまうはずである。」



 つまりここで、チベット密教の行で用いられる「管」は、脊髄とは微妙に異なる、ということが、すでに指摘されています。しかし彼は同時に、「ところがこのズレは、タントラ仏教のプラグマチズムにとってさして問題とはならない」として、密教の行で重要視されるのは、脊髄ではなくその「管」の方である、と続けるのですが、その後彼は、その「管」の特性を、宗教学者らしく「宇宙論的なとでも言うべきより開かれたコンテクストのなかに位置づけようとする」のです。

 しかしながら、気功家のハシクレとして、僕のよりプラグマティックな見解を述べさせていただくと(笑)、ここでは彼のように、一足飛びに宇宙論に接続する必要はなく、もっと体感ベースに素直に解釈しても良いのではないか、というのが、気功のトレーニングを積んできた者としての印象です。もっとも、チベット密教自体が、元々宇宙論であるといっても過言ではないため、ここで彼のような解釈が出てきても、全く不思議ではないと思いますが(実際、チベット密教においては、特定の行をした時の、例えば光が見えるとかいったような特定の生理学的な反応を、全て、仏教のコスモロジーの中に、溶かし込もうとします)。

 また、この脊髄と「管」との差異は、あの高藤聡一郎氏も触れていますね。彼の場合は、前者(ここでは督脈ですが)を気が通ることを「小周天」、後者を気が通ることを「大周天」と呼び、通常大周天と呼ばれる行法を、特に「全身周天」と名づけて区別しています。

 また、一指禅功でもそうなのですね。一指禅功では、この真ん中のルートを、「中脈」と呼んでいます。しかもこれは、いわゆる経絡ではありません。つまり、行に用いられるだけの、プラグマティックな存在なのです(もっとも僕も、この点に関して十分な説明を受けたわけではないのですが)。

 実は僕は、このルートは、生理学的な特定のルートを指すのではなく、ボディ・ダイナミクス的な体感上の存在なのではないか、と考えているのです。

 これに関しては、僕のHPの中で、次のように書きました。



「その現象にしても、私は、上体が前後左右を含めた水平方向に倒れようとするときのモーメントが丁度つりあう点(いわゆる支点)を人体内部で垂直方向に積分していったものを管のように知覚しているだけなのではないか、と純粋に力学的に考えている。」



 この印象は、今でもあまり変わってはいません。それどころか、逆に強化されている、といって良いのかも知れません。例えば、站椿功の場合ですけれども、体の重心線を真っ直ぐに両足の間に正確に下ろすと、すぐに強い衝撃が体を貫いて、なおかつ全身が温かくなってきます。それどころか、その重心線をイメージの中で更に真っ直ぐに下ろし、それを地球の物理学的な中心点(それは定義上、大きさを持ちません)に接続すると、更に強い衝撃と熱が、発生します。古人であれば、この時、地球からエネルギーをもらっている、とでも言うかも知れませんね(笑)。また、そのように体軸を重力線に完全に一致させた時、まさに体が消滅したような感覚を覚えます。それは、ボディ・ダイナミクス的に考えれば、重心を下へ下へと下ろすことで、より全身が安定し、その結果、全身の力が抜けやすくなるから起こる反応ではないか、と考えているのです。

 これを逆に考えれば、実は僕達の身体イメージというものは、体の重心が前後左右に揺れることで生じる微細な筋肉の動きを、その中に埋め込まれている神経系がキャッチして、その情報が脳の中で積分されることで作られている、と考えることも可能なのかも知れませんね。

 だとすれば、脳に送られているこのような身体の微細な動きに関する情報を、何らかの形でブロックすることが出来れば、何か、通常とは違った知覚が得られるかも知れない。

 同じく中沢先生は、別著で、次のように述べられています。



「(インタビュアーの、「チベットでは、リアルに触れたという感覚があったわけですか。」という問いに対して)
ありました。感覚だけでなくて、チベット密教はリアルをつくりだす教えでしょう。修行によって肉体を変えていくわけだから。大脳の頭頂部に、イメージ統合野というのがあるんです。身体イメージはここでつくっているんです。ここを停止させて、身体イメージ像をいったん壊しちゃう訓練なんかをする。そうすると、幽体離脱ではないんだけども、寝ているときに自分の首がズーっと伸びていくように僕はイメージしますけど、たぶんそうじゃなくて、僕のなかの知覚のあるものが身体の外へ出ていくんです。南方熊楠もよくやっていますよ。旅館で寝ていると、身体はそのままで、階段を下りて、お勝手に行って、また戻ってきたとか(笑)。」(『リアルであること』幻冬舎文庫、1997年)



 要するに、リラックスですよね。こう考えてみると、このような現象は、そう不思議なものではないのかな、という気がしますね。

 もっとも僕の場合はフリークではないので、これをプラグマティックに、仕事に活かさなければならない(笑)。このような感覚を意図的に作り出すことで、自分の中から発生する熱をより強化させて、施術に応用することが出来る、ということに気付いたので、このようなトレーニングについていろいろと、研究を重ねているわけなんですけれども。



 ここで、先生がご指摘なさった"エネルギーの放出"ということなのですが、赤陽先生によればこの点が、まさにヨガと気功の差異、ということですね。

 このようなクンダリニ系の行は、チベットでは"ポワ"と申しますが(一時期妙なところから、流行語になりましたね(笑))、中沢先生がこの行についての詳細なレポートを展開されている『虹の階梯』(中公文庫、1993年)の中でも、ラマ・ケツン・サンポの言葉として、この行を多くやってはいけない、特に若者はいけない、と述べています。また高藤聡一郎氏も、『秘伝!チベット密教奥義』(今から考えればすごいタイトルだなー(笑))の中で、同じようなことを述べていますね。要するに、寿命が縮む、と。

 僕はこの行をきちんと体系立ててやったことはないので、詳しいことはわからないのですが、それらの問題については、何となくイメージは出来ます。

 と申しますのは、ある時、それこそ高藤氏の別著の影響で(笑)、似たような行法を、自分なりに試したことがあるんですね。それは、頭頂部に、不動明王が鎮座している様子を思い浮かべる、といった簡単なものだったのですが、上野から日比谷線に乗って中目黒に着くまでの車内でそれを試してみたところ、下車する時に、頭がクラクラして前後不覚になった経験があります。

 高藤氏も、似たような経験について、『秘法!超能力仙道入門』の中で、述べています。



「そこまではよかったが、あとが大変だった。ちょうどコンクリートの道路にでも倒れて、思いきり頭を打ったときのような感じになってしまったのだ。頭の中をワーンといった音が駆けめぐり、霧でもかかったようなボーッとした感じになってしまったのだ。耳から入る音はエコーしながら遠くに聞こえ、視界も、濃厚な空気の層をとおしてものを見ているようなぐあいになった。」



 これと全く同じような状況でした。思えばあの時、気がごっそりと頭頂から抜けてしまったのかも知れませんね。ですからこのポワのような行法を一生懸命にやると、心身に変調をきたす可能性がある、というのは、十分に想像出来ます。

 もちろんチベット密教において、このようなクラクラした状態が、いわゆる"悟り"とどのような関係にあるのか、それ以前に、これは正しい反応なのかどうかは、部外者である僕にはわからないので、それを達成するために一旦このような状況を通過しなければならないのだとしたら、その実行は、きちんとした師匠の指導の下ではないと危険だ、ということは、あると思います。

 これに対して気功の方では、これは前回にも少し触れたことでもありますが、気を外に放出するようなことはありません。小周天であろうが、(通常の意味での)大周天であろうが、基本的に、身体内部に循環させます。そうやって全身そのものを"純陽の気"に変えていくことが、気功の目的なのです。そうやって、いわゆる"不老長寿"を達成しようとするわけですね。極めてプラグマティックです(笑)。

 その過程で、そのまま魂が抜けたような状況が発生したとしたら、それはそれでよろしいと。ですから、結果的に同じ状態になったとしても、それが起こるのが人為的なものか、自然発生的なものか、という違いみたいですね。言うまでもなく、後者の方が無理がない、ということらしいです。

 実は横浜教室には、禅の六代目の祖である恵能大師のミイラの写真があります。いわゆる即身仏なのですが、僕はこの写真を見て、ぎょっとしました。というのは、本当に生きているようなのです。この方は紀元700年前後の人物ですから、死後1300年は経っています。ところがその姿は、まるで、単に坐禅しているようにしか見えない。逆に、日本で即身仏といえば、山形県の湯殿山のものが有名ですね。僕も一度拝見したことがあって、それらは、いかにもミイラ、といった感じなのですが、六祖のそれは全然違います。赤陽先生に言わせれば、これが本当の即身仏だ、ということなのですが、それは十分に納得できます。

 まあ僕の亡骸が僕の死後どうなろうと、そういうことにはあまり興味はないのですが(笑)、その写真を見た時に、赤陽先生の言われる"純陽の気"が達成された時に、身体の細胞レベルでの構造に、何らかの変化が起こるのかも知れない、と思いましたね。

 果たして、そのような状態に近づいた時、僕の心身にどのような変化が起こるのか、非常にわくわくしますね。それを外に引っ張り出したら"陽神"ということになるのかも知れませんが、そのようなことは本当に起こるのかどうか。なかなかこういう世界は、やはり奥が深いですね(笑)。

 因みに、今月の中国養生の旅の目的地は、武当山です。道教の聖地ということなので、いろいろ怪しげなネタが転がっているんじゃないかと、今から楽しみです(笑)。



 それではまた!





at 10:33, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(17)〜プラグマティズムからみたヨーガ等の他の身体技法と気功との差異

 クンダリニに関する仮説、なかなか興味深く伺いました(笑)。

 なるほど、仙骨や腸骨には、幼若な骨髄細胞がプールされているのですね。そのような解剖学的な解説は、非常に参考になります。

 一度僕も、仙骨というものに興味を持って、ネットで調べてみたことがあるのですが、出てきたサイトにいきなり、「仙骨にあるエネルギーの回転サイクルが宇宙と共鳴してどうのこうの」みたいなことが書いてあって、挫折した経験があります。運が悪かった(笑)。

 確かにおっしゃるように、それを何らかの手段で取り出して、全身に巡らすことができれば、それは心身の活性化につながるのかも知れませんね。

 言うまでもなく、そんなことは不可能だ、というのが、一般の医学者の見解でしょうが(笑)。

 先生のメールに刺激されて、僕も久々に、クンダリニ・ヨーガ風のトレーニングを試してみました。とは言っても、誰かに習ったものではなく、そのような解剖学的な知識を援用して、ただ単に、仙骨の付近に気持ちを持っていっただけなのですが。

 そうすると、全身に感じられる熱感は相変わらずなのですが(でも若干強化されたような・・・)、今まで以上に、頭頂部付近に強い圧力を感じるようになりました。

 ただ、あまりにも強い刺激のために、頭蓋骨がどうにかなってしまいそうだったので、それ以来は少し控えるようにしています(こう書いているだけでも、後頭部がむずむずしてきて、物理的に痛いんですけど(笑))。

 もっともこう申し上げたところで、仙骨に気持ちを置くだけでそんなことが起こるはずもない、などと、またまた医学者には非難されそうですが(笑)。

 だいたい、"仙骨"という名称自体が、何かありそうですよね(笑)。それに、仙骨の最下部である尾骨には、「長強」という名前のツボもあります。この名前も、非常に示唆的です(笑)。

 いつだったか忘れたのですが、このようなヨーガの技法について、赤陽先生と話したことがありました。彼が言うには、ヨーガの場合ですと、下腹部から発生させた熱を真っ直ぐに上げて頭頂から抜くことで、"神との合一"を図る、というのが、その技法の目的だ、ということですね。さらにこの背景には、インド=ヨーロッパ語族らしい、"始まり-終わり"という、一次元的というか、直線的な世界観が関係している、と。

 ところが、中国の仙道や気功の場合ですと、その基本的な世界観は"循環"ですから、その熱を外に放つのではなく、自分の体の中で延々とループさせる、というテイストが濃い、ということです。小周天なんかがそうですね。具体的な行法で申しますと、例えば一指禅功の練功の場合では、あごを軽く引くわけです。そうすると側面から見れば、人間の体は、極めて大雑把な形ですけど、楕円形になりますね。その結果、気は円を描いて循環し始めます。そのルートは言うまでもなく、督脈と任脈ですね。ここでは、"陰陽を調和させる"、という中国哲学が、そのまま身体論そのものとして、描かれています(実際、一指禅功の内丹功の説明においては、あの太極図が用いられます)。

 ですから、この東洋の二つの身体技法には、その思想的な世界観の違いが、色濃く影を落としている、ということになりそうです。つまり、ヨーガは、神や悟りなどの観念的なものを志向し、それに対して中国仙道や気功は、功夫などにも見られるように、まさに唯物論的というか、身体的なものを志向する、と言っていいのかも知れません(この辺の、昔から『怪力乱神を語らず』などと言って、あまり観念的なものを志向しなかった、という風潮が、後に中国がマルクス主義を受容することになった、歴史的背景である、という説も、実際にあります)。



 このことは先生の、「何も無理やり覚醒法をしなくても自動で小周天を繰り返していれば、徐々に若返りそう」というお言葉にも、若干関係してくるのかも知れません。

 というのは、正にこの点に、それこそ無意識的に疑問を抱いていたからこそ、僕はヨーガではなく気功の方へと、歩みを進めることとなったような気がするからです。

 それは、プラグマティックな問題です。

 要するに、ある種のヨーガの場合、そのような無理やりな覚醒法を実行するとして、その練習の主たる目的が、不明確なんですね(もちろんこれは言うまでもなく、僕にとって、という意味なのですが)。あるいは、プラグマティックな意味を感じ取ることが難しい、というか。もしかしたら、何人かのヨーガのインストラクターに、このような問いかけをすれば、「ストレスを解消して、より健康的な生活をするため」といった答えが返ってくるかも知れませんが、そのような答えに僕が満足するはずはありません(笑)。そうなってくると次の答えは、「潜在能力を開発するため」とでもなりそうですが、ではその潜在能力というものを開発して、どのようなメリットがあるのか、とさらに問いかけていくと、結局答えられなくなってしまう、そうなると最終的に、先ほども申し上げたように、神とか悟り、という超越的な、まさに"常人では理解困難な"概念を引っ張り出してこざるを得ないのではないか、と考えたのです。

 つまり、今風の、かつ意地悪な言い方で申し上げると、「独りよがり」となる危険性が、極めて高いのではないか、と思ったのです。

 実はこのことは、ヨーガに限らず、他の身体技法でも、指摘できることだと思います。

 例えば、先だってお会いした時に、日本で作られた肥田式強健術のお話をしました。実を申し上げると、僕がある時、まさしくプラグマティックな意味で身体技法を学ぶ必要性を感じた時に(それは知人の死が原因でした)、最初に門を叩いたのが、東京にある、この肥田式強健術の教室でした。ところがその練習の内容は、とても評価できるものではありませんでした(もちろん本人達は、満足しているのでしょうが)。そこで僕は、こう考えました。肥田式強健術について知ろうと思えば、これを直接学ぶよりも、回り道かも知れないが、中国の気功法からアプローチした方が良いのではないか、と。そうして30件近くの気功教室を当たった結果として、赤陽先生のところに行き着いたのです。

 肥田式強健術を作った肥田春充氏は、昭和半ば頃まで存命だった、もちろん実在の人物です。その強健術は明治時代に大ブームを引き起こし、一部が軍事教練にも採用されたほどです。さらに彼に関しては、様々な信じ難いエピソードが伝わっています。ところが今日、彼の名前を知る人物は、ほとんどいません。その強健術の技法は、完全に消滅してしまっている、と言って、良いと思います(言うまでもなく、自分だけは会得している、と勘違いしている、一部のマニアは別ですが(笑))。

 余談ですが、実は僕は、彼のお墓に参拝したことがあります。というのは、これは恐ろしいほどの偶然なのですが、彼のお墓のある八幡野というところは、時々お話している南青山の不動産会社社長兼仙人の(笑)S氏の別荘の、ごく近くだったのです。彼の自宅の跡地にも行ってみたのですが、完全に荒地になっていました。お墓も草ぼうぼうで、完全に放ったらかし。それどころか地元の人々に伺ってみると、皆さん彼のことをあまり良く思っていないみたいですね。彼のお墓の前に立ちながら、僕は、非常に複雑な心境になりましたね(因みに二回目に行ってみると、綺麗に掃除がしてありました。僕がS氏に、「誰か掃除なさったみたいですね」というと、「あ、僕がしておきました」とのお返事でした(笑))。

 この事実からもわかるように、このプラグマティックな問題というのは、コミュニケーションに関係する問題、と言い換えても良いかも知れません。それは先ほど申し上げましたように、"常人では理解困難"ということに、つながってきます。

 つまり彼らは、そのような技法が現実社会で、どの程度役に立つのか、に関する情報提供が不足してはいないか、そういう意味で、よしんば超越的な領域とのコミュニケーションができたとしても、肝心の彼ら自身が住んでいる現在の世界とのコミュニケーションが、疎かになっていはしないか。僕が引っかかったのは、この点でした(この点は、今まで散々批判してきた"霊感系"の人々にも、当てはまりますね)。

 彼らが会得した身体技法は、自らの潜在能力を活性化させる、素晴しいものであったかも知れません。しかし問題は、そのことは、そのトレーニングをしている人以外にはわからない、あるいは実感するのに時間がかかる、ということにあると思います。もちろん、それを習得してやろう、というインセンティブのある人に対しては、有効だと思います。そのような人は、それを会得するための努力を惜しまないでしょうからね。しかしそれは、限られたケースでしょう。結果としてその効果は、大方の人にとっては、不可視のままに留まらざるを得ません。

 例えば、肩凝りに悩む人がいるとします。そのような人に対して、ヨーガや強健術は役に立つよ、と主張することは、簡単にできると思います。しかし、そう言われたからといって、ではそれを試してみよう、と思う人は、十人に一人いるかいないかでしょう。あるいはそれ以下かも知れない。そのような状況では、その技術が役に立つのかどうかを判定するのは、とても難しいと思います。ではどうすればよいのか?

 その場で、痛みを止めればよいのです。

 ですから僕は、このような分野に手を染めた当初から、無意識的に、そのような技法を目指してきました。つまり、何らかの形でその効果が目に見えるような技法でなければ、自分から見ても、他人から見ても、その効果を確証できないわけです。そして、そのような効果の確証できないようなものは、現実社会の中では説得力を持たない、そういう意味で、何の役にも立たないのです。

 そのようなことを考えながら歩んできた結果、僕は点穴療法へと辿り着きました。そして正におあつらえ向きに、無為気功養生会では、その二つが、同時に学べたわけです。これは自分にとっては、とてもラッキーだったと思います。

 点穴療法と平行して学んだ一指禅功の練習を続けることで、自分自身の心身の、大きな変化が自覚できます。それだけではなく、施術という形で、それを自分だけではなく、クライアントさんの身体変化を通じて、確認できます。これはまさしく、バイオ・フィードバックですね。

 そういった意味で、僕が施術を行っているのは、クライアントさんのためでもありますが、それと同時に、自分自身のためでもあるんです。

 赤陽先生は、「一指禅功の場合、施術がそのまま練功になる」とおっしゃいますが、これは、そのような施術に伴うバイオ・フィードバック的な効果を考えると、極めて的確な指摘である、と思いますね。

 しかし逆に、そうではないとしたら、自分自身の心身の本当の変化と、言い方は悪いですが、単なる"妄想"的な「独りよがり」とを、どのようにして区別することができるのだろうか、と疑問に思ってしまいます。単にその技法を真似るだけで自己満足しているような人達が、この世の中には何と多いことでしょう。非常にもったいないことのような気がします。

 でもこのようなことは、僕が片方で手掛けている、芸術と呼ばれる分野にも言えることなのかも知れませんね。それを芸術だと思っているのは、制作した当人だけ、という状況は、頻繁に起こり得るわけです。因みにここで僕が問題にしているのは、いわゆる前衛芸術などといった特定のカテゴリーのことではなく、制作者自身のメンタリティあるいはスタンスのことです。これを象徴するような出来事が、今正に奈良で起こっているようですね。僕はこの経緯を、非常に興味深く見守っているわけです(笑)。さらに言えば、僕自身が単なる自己表現としての音楽ではなく、環境音楽や音楽療法などといった実用音楽を手掛けているのは、無意識的に、このような志向性があるからなのだろうと思います。

 僕は気功だとか芸術だとか言っていますが、その言葉から受ける観念的なイメージとは全く逆に、徹底的な現実主義者、あるいはプラグマティストなのです(笑)。



 ここまでは、ヨーガと気功との、言わばバックグラウンドの差異に関して述べましたが、次に、具体的な技法に関して、先生の先ほどのご指摘を考えてみますと これは僕の考えなのですが、現在一般的に流布しているヨーガの技法は、基本的に初心者向けで、初心者の場合は、まず心を静める必要があるものですから、身体の内部であれ外部であれ、何かに意識を集中する、ということがうるさく言われるのかも知れません。

 結果として、習得が非常に難しくなります。

 しかしそれは程度問題で、先にも申し上げました通りこういった厳密なやり方は初心者向けですので、こういった練習にすんなりと入っていける方ですと(あるいは仙縁のあるというか(笑))、そのような極端なことをなさる必要は、ないように思います。これは以前、無上ヨーガ・タントラについて触れた際にもお話したことの繰り返しにもなるのですけれどもね。

 そういう意味では、細かいことをあまりとやかく言わない技法の方が、練習がしやすい、ということは、あるかも知れません。

 これも僕が、ヨーガをやらなかった一つの原因でもあります。ともかく、型が多過ぎるので、一体何が重要な要素なのかが、外からは理解し辛いんですね。

 逆に気功の場合ですと、練習はひとりでに進んでいきますので、そんなにややこしい技法を用いる必要はありません。特に僕の経験では、一指禅功はそうでしたね。

 これに関しては、師匠は本の中で、『低温熟成』という表現を用いて説明しています。僕もこれはいい表現だと思います。強火ではなく、弱火でじっくりと煮込むわけです。そして気功の中でも、まさしく火は意念です。弱い意念でじっくりと丹を練る。これがポイントだと、僕も思います。

 もっとも、気功もヨーガもかなりオーバーラップしている部分がありますので、どちらがどうだ、と単純に比較することはナンセンスではあるのですが、僕自身の経験では、細かいことを言わないだけ、気功の方が習得しやすかったかな、という気がします。



 もう一つ先生のメールの中で興味を引いたのは、「どうも馬歩椿を始めてから・・・」というご指摘です。

 もう一派の一指禅功のインストラクターである僕が、あれこれ申し上げるのは不遜ではありますが(笑)、ざっと先生が取り組まれておられる方の内勁一指禅に関する文献を拝見致しますに、そのようなことは起こり得るかもしれない、と思いました。

 と申しますのは、あのやり方は、確かに、人差し指に気を導きやすい、とは思うのですが、問題は、この"導きやすい"ということそのものにあるような気がします。つまりご指摘の通り、初心者の方であれば、好むと好まざるとにかかわらず、気がそちらに集中しやすくなって、身体の他の部分へは行きづらくなるということがあるのかな、と思いました。

 ですから内勁一指禅をされるに当たって、このような気の一極集中を避けるためには、ある程度、他の動功を併用した方が良いのかも知れませんね。

 この点で申し上げますと、我々の一指禅功の場合は、站椿功では確かに人差し指を立てるのですが、師匠によればそれは、人差し指への気の集中を主眼にして行っているのではない、ということですね。この場合の主眼は、文字通り"眼"だそうです。つまり、眼から気を出すことを主眼にして、トレーニングするということですね(これを"目功"というそうです)。

 しかしながら、これも通過点に過ぎず、最終的には、全身から気を放射する、言い換えれば、まさに"動く龍穴"にようになってしまって、特に手や眼を使わなくても、そばにいるだけでその人の何らかの疾患が改善してしまう、という段階にまで、トレーニングを続ける、ということです。こうなれば、指先に気を集中して放射する、というのは、特に意識をしなくても容易に可能、ということになるようです。実際、一指禅功の第三節である動功は、これを主眼に組み立てられているようですね。

 ですからご報告を伺って、これは僕の個人的な意見なのですが、全身に気が自由に行き来する段階になってから指先に導く方が、やはり体に負担を掛けないのかな、という感想を持ちましたね。もっともその辺は、内勁一指禅の場合、外気功(初級)以降のカリキュラムの中に組み込まれていたりするのかも知れませんけど(笑)。ですからお試し頂いた通り、全身の経絡の通りを調整なさる場合には、遊龍功は有効かも知れない、と思います。



 『気功革命』という本は、初めて伺いました。早速チェックしてみます。確かに站椿功では、ご指摘のようなイメージでもって、背筋の力を抜く、というやり方もありますね。しかし、ヨーガで柔軟&仙骨刺激→遊龍功→站椿功か坐功、というメニューはすごいですね。僕以上にご熱心なご様子で、何よりであります(笑)。



 それではまた!




at 11:51, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(16)〜気功とビジネス

 なるほど、○○○に辿り着かれましたか(笑)。

 実は何を隠そう、赤陽先生の所で一緒に学んでおられたおじさんが、興味が嵩じて、そこにも手を出されたんですよね。

 その方は千葉県流山市にお住まいで、横浜からの帰路が僕と一緒でしたので、とても良くして頂きました。今でもしょっちゅう、お電話を頂きます。

 その道すがら、僕の"道場破り"の数々をお話していたら、感化なされたようで(笑)。実際彼はそれまで、赤陽先生以外の所には、行かれたことがなかったんですね。

 その顛末を僕は、大変興味深く見守っていました。

 その結果はどうなったか?前回お会いした時には、「もう行かない」とおっしゃっていましたね(笑)。

 彼曰く、完全に商業主義で、大して得るものがなかった、やはり赤陽先生の方がいいですね、ということです。具体的には、型ばかりをやっていて、その中身についてはほとんど触れないと。しかもその型というのが武術気功なものですから(いきなり難解な型をやらせていたみたいですね)、初心者には極めてハードルが高かったそうですね。想像通り、という感じですが。

 因みに、そこで知り合った若い女性の方に尋ねてみると、「何年もこちらに通っているけれど、気の感覚が全然分からない」とおっしゃっていたそうですね。可愛そうだなと同情してしまった、とおっしゃられていましたが(笑)。

 でも逆に、そのおじさんのレベルは、横浜教室では、ケタ違いなんですね。

 覚えておられるかどうかは分からないのですが、先回お会いした時にお話した、横浜教室で懇意にさせて頂いていて、なおかつ気功のレベルが非常に高いお二人のうちの一人が、この方です(もう一人の方が、南青山の不動産会社の社長さんです。その方は一時期、パラマハンサ・ヨガナンダのクリヤ・ヨーガにハマってらっしゃいましたね。あ、あとは真言密教の加持祈祷か。最近のお気に入りは、オショ・ラジニーシだそうです(笑))。

 ご指摘の通り、気功に関してはまさに玉石混交たる状況ですので、むしろ問われるのは、我々学ぶ方の見識なのかも知れませんね。



 このような混乱した現状が産み出された原因は、ご指摘の通り、日本で気功をやれば、健康ブームに便乗して必ず儲かる、という風評が中国で立ったので、ビジネスチャンスを求めてそのような中国の方が、大挙して日本へやってきた、というのがまず一つ。

 そしてもう一つは、以前お話したように、法輪功の問題があって、中国国内では気功を始め東洋伝統文化に対する風当たりが強くなったので、仕方なく国を離れざるを得なくなった本物の気功家達の一部が、日本へやってきた、という理由もあると思います。

 でも後者のような方々の場合は、多分その素性を隠されるでしょうから(実るほど頭が下がる稲穂かな、というやつですね)、結局、日本で大々的な看板を上げているものの中には、前者に属するものも少なくない、ということになりそうですが。いろいろと聞いたこともない肩書きなんかを列挙なさったりして(笑)。

 そのような内側の状況は、本やHPなどでは絶対にわからないですから、最終的には、自分の眼で確かめる他ないのかも知れませんね。



 本山博先生にも手を出されましたか。実は、彼の所も一度、お尋ねしたことがあります(笑)。

 実際彼のご自宅は、神社も兼ねているんですね。神社をやりながら密教ヨーガというのも、冷静に考えたら不思議ですけど(笑)。

 彼の文献の中には、かなり神秘的な表現もあるにはありますが、様々な身体技法を比較検討なさっているという点で、参考になる点も多々あると思います。

 そのように、気功以外の地点から気功を見直すと、その本質が良く判るのではないか、というのが僕の意見です。

 思うに、いろいろな分野に様々な流派があることはあるのですが、その本質は一つのような気がします。

 何故なら、人間の体のことですからね。民族が異なっても、基本的な人体の構造は一緒ですし。違うのはものの考え方、というだけで。もっとも、これが一番やっかいだという気もしますけれど(笑)。

 これは僕の憶測ですが、劉先生もそのような考え方に賛同して下さるような気もしますね。レベルがズバ抜けて高い人の場合には、国籍だとか何とかいう違いは、ほとんど問題にならないのだな、というのを、彼に会って初めて感じました。

 本当に、人間というのは面白いものです。



 さて最後に、ご質問の動功に関してですが、実を申し上げると、僕はほとんどやっていません。

 と申しますのは、坐功だけで、十分用は足せているように感じるからです。

 赤陽先生は、「動功のない気功はない」と言って、静功と動功を両立させることの重要性を常に指摘されますが、僕自身はあまり動功をする必然性を、感じていないのです。

 穿った言い方を許して頂けるとすれば、気功には、「静中に動有り、動中に静有り」という言葉もございます。この言葉通りかどうかは判らないのですが、静功中には僕の体の中を、熱の塊がものすごい勢いで駆け巡っているのを感じます。この感覚はあまり動功では得られませんので、面白いものだから静功ばかりやっている、というのが現状です。

 とは申せ、僕も入門当初は、動功ばかりやっていた時期もありました(赤陽先生に通背拳を習っていたような頃ですね)。ですから、いろいろとお試しになって、ご自分に合わせたものをお選びになるのがよろしいのではないか、という気がします。教条主義的な普通の指導者であれば、そんなことは申しませんでしょうが(笑)。

 あと、様々な禁忌についても、そんなに神経質にお考えになる必要はないように思います。うちの一指禅功の場合は、ビールを飲むことと、ニンニクを食べることは厳禁なのですが、僕は、そんなに守っていませんし。この時期のビールの美味しいこと美味しいこと(笑)。



 それではまた!




at 23:03, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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ある精神科の先生との対話(15)〜一指禅功あれこれ

 なるほど、一指禅功の歴史というものは、それはそれで追求してみると、面白いかも知れませんね。

 先生のメールにありました一指禅功の解説を素直に解釈すると、達磨大師以降元々は嵩山少林寺で伝えられていた一指禅功が、時代を下るにつれて徐々に枝分かれしていき、その一つが、唐代に建立された福建省少林寺から闕阿水老師を経た現在の内勁一指禅功、ということになるのかも知れませんね。

 以前にも少し触れましたが、実際僕が知っているだけでも、少なくとも四つの一指禅功があります。一つは劉先生のもの、一つは内勁一指禅功、一つは指圧の一流派、そしてもう一つは、『少林七十二芸』という武術体系の中の一指禅功です。

 最後のものが、例のろうそくに向かって指を突き出すトレーニングをするものですね。 因みに、僕が嵩山少林寺を尋ねた際、寺の中にある小さな土産物店にあった書籍の中に、これに関するイラスト解説付きの文献がありました。

 なかなかファンキーなイラストで、終わりの方には、釣鐘に向かって指を突き出しているものもありました。気で釣鐘を鳴らすつもりなんでしょうね。

 あの時に買っておけばよかった、と、今でも痛烈に後悔しているのですが(笑)。

 このようなある意味混乱した状況ですので、それぞれの一指禅功をやっている人々の中で何らかのディスカッションや交流があったら、いろいろな形で、一指禅功に限らず気功そのものに関する研究も進みそうな気がするのですが、そのような話はついぞ聞かないですね。

 これは、お互いの対抗意識というか、セクショナリズムの現われなんでしょうか?そこら辺は、今度は心理学的に興味があったりして(笑)。

 いずれにせよ僕も、人様にご指導させて頂いている関係上、今後それらの異同についてお尋ねを受けることも増えてくる可能性がありますので、今度赤陽先生に、突っ込んで尋ねてみようと思います。

 T氏という方も、なかなかハンドルネームからしてファンキーですね。僕はそこまでカッコよくなれないですけど(笑)。一度お会いしてみたいですね。こうなってくると、また僕のスパイ癖が、むずむずと掻き立てられます(笑)。

 先生がおっしゃるようなディスプレイとの相互作用は、気が充実してくると、十分にあり得ると思いますね。

 僕の知人は、その前を歩くだけで、自宅のテレビやラジオの電源が、勝手に入ったり切れたりするらしいです。首都圏にお住まいなのですが、たまに、鉄道の改札を通る時、困ることがあるそうですね。というのは、切符を握り締めたりしていると、どうやらその切符の磁気が影響を受けて、自動改札機が誤作動を起こすとか。それはそれで、なかなか大変らしいですけどね。

 また先生から頂いたテキストにも、むやみに人差し指を人に向けるな、とありましたね。僕も、友達と話をしている時に、無意識に指を向けると、ものすごい衝撃が体を襲った、と言われて怒られたことがありますが。二人とも女性でしたけど。女性はやはり敏感ですね(笑)。

 それでは、またご報告をお待ちしております(笑)。





at 12:15, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

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