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Kさんとの対話(29)〜神秘主義研究と囚人のジレンマ

JUGEMテーマ:心、体、そして魂。

 

謹啓 K様

 

気温が上がったり下がったりしていますが、いかがお過ごしですか?

 

火曜日のライブはいい感じでしたよ。 僕としては今回は鳥取市の音楽家とのコラボレーションでしたので、 どんな感じになるかわくわくしていたのですが、滞りなく終わって良かったと思います。 何というか、鳥取市のシーンの方が倉吉市よりも音楽的にバラエティに富んでいるような気がしますね。有名なクラブイベントとかもありますし。僕みたいにエレクトロニックな音楽を扱う人間にとっては、やりやすい気がします。県中部は割とロックとかパンクとかの方が多いですから。意外なことに、最近はレゲエですね。そういうのも好きなんですけれどもね。そんなわけで鳥取県を西から東に行ったり来たりしています(笑)。

 

脳波計のプログラミングですか?それ凄いですね。さすが工学部(笑)。そのようなお話を聞くとわくわくしますね。そのように気功状態を何らかの形で可視化するメソッドがあれば、練功とかにも応用出来そうですね。昨今の情勢ですと、日本の大学の研究とかも超が付くくらい保守化してしまっていて、そのような研究する人っていなさそうですしね。 間違いなく出世出来なくなりますから(笑)。ソニーだって昔は超能力研究所みたいなのを持っていたくらいなのに、寂しいものですね。

 

というか、そのソニーにも見られるように、そのような一見「馬鹿げた」研究をしなくなったところに、昨今のようなギスギスした環境が生まれた要因があるような気がしますけれどもね。そういう意味で『恐怖新聞』とか読むと、怖いというよりノスタルジックだったりする(笑)。それこそ老荘思想にも『無用の用』という言葉がありますけれども、現代社会では無用はそのまま無用ですからね。もっとも日本中が不況どころか経済封鎖されているのと同じ状況がここ30年以上続いていて、現実的にそんな「馬鹿げた」ことをしている余裕もない、というのもわかりますけれども、そのために無難な分野だけを追求していると、当然無難な結果しか生まれませんし、そういう分野は多大な資金力を持ったアメリカとか中国とかに勝てるわけはありませんから、まあ当然の帰結ですね。更には人類全体を見てもそんな気がしますけれどもね。個々人が経済効率性を極限まで追い求めることで、その社会全体を崩壊させる可能性が生じるみたいな。囚人のジレンマを地でいくような話ですが(笑)。

 

ですから気功なんて一般的なイメージとしては怪しさ抜群で、それこそ無用の最たるものなんでしょうけれども、使いこなせればホント便利ですけれどもね。今自閉症の人を対象にしたアートセラピーの仕事にも関わっているのですが、セッションが終わってかなり疲れ果てていても、帰りのバスの中でわずか10分程度でも体を気功状態にすれば完全に疲れは解除されるので、私的には非常に助かっています。でも逆にこれ知らない方の場合、この疲れをそのまま家へ持ち帰って、眠っても全然疲れが取れない(あるいはそれ以前に、そもそも眠れない)ままで翌日も出勤、そしてまた疲れ果てて帰宅、とかいう日々が続くと、体調おかしくなって当然かなと思いますね。ある意味大変だなと思います。

 

ともかく気功というものは、使いこなせなければ非常に便利なツールだと思いますね。

 

ですので今開発されているような機器があると、気功だけではなく幅広い分野に応用出来そうですね。昨日来られたクライアントさんがストーンとチャクラのことを話していらっしゃいましたけれども、そういう方の変化をそういう機器で計測して可視化すると、色々面白いことが判るかも知れない。その意味でこの前からの議論ではないですけれども、例えば被験者の体の回りの空間の変化を何らかの形で感知する機器とかって出来ないですかね?熱でも磁場でも何でも良いのですけれども。そうなると気の流れだけではなく、例えば幽体離脱が起こった時に体の回りの空間にどのような変化が起こるか、もし変化が起こったとしたらそれは幽体離脱と関係があるかも知れない、と考えることが出来る。しかしその実験は幽体離脱を立証するために行うのではなく(そんなことしたって潰されますからね(笑))、幽体離脱をより容易に行うツールとして使う、みたいな。僕は基本的にプラグマティストですから(笑)。あるいは特定の空間上に意識を置いた時にそこの場所に何か変化が起きるか、もし変化が起きるとしたらその変化は意識でもって起こった可能性があり、もしそうだとしたらそれと自縛霊と呼ばれるものとは何か関係があるのかとか、遠隔治療とか、さらには出神でもって意識を取り出すみたいなことのメカニズムが判るかも知れない。そうなると行に弾みがつきますよね(笑)。そういう研究もしてみたいですね。

 

取り敢えずあかり舎さんはやはり6月末でクローズになりましたので、第三週からは未来中心を考えています。駐車場広いしそこそこ便利ではないかと 思います。そうそう、最近うちに来られる霊感系の方も、あのあかり舎さん周辺は幽霊だらけだと言っていましたよ。皆さんさすがですね。Rさんにもそうお伝え下さい(笑)。それではまた!

 

中原勇一

at 19:13, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(16)〜気功家としての私のスタンス



 僕の場合は、不特定多数の人に対して何かを訴えかけたりという欲望が、全くないのですね。悪く言えば、基本的に、どうでもいい、と考える節がありまして(笑)。

 その割にはブログにはいろいろと書いているじゃないか、と思われそうですが、あれは完全に、マーケティングの一環ですよね。先のようなスタンスのままですと、他の人に知っていただける機会は、当然失われますから。それではお客様がお出でになりませんから、仕方なく、ですね(笑)。だとすれば、人様とのディスカッションをそのまま転載する方が楽ですし、判りやすいのではないかと。

 僕の場合は、パースン・トゥ・パースンのコミュニケーションの方が、好みなのです。そちらの方が断然、面白いですしね。

 施術や音楽活動も、その一環ですね。それをどうこうしようとはあまり考えていなくて、それを用いた他者とのコミュニケーションが、ただ単に、好きなのです。そうでなければ、一人で坐禅している方が良い。極端ですけれど(笑)。

 その意味では、ネット上でのコミュニケーションというものは、僕自身は基本的に、受け付けない部分があります。相手の表情や声のトーンなど、コミュニケーション上の重要な要素が、ごっそりと欠けていますからね(そちらの方が、コミュニケーションにおいては、ディスクールの中身よりもはるかに重要なのだ、というのは、ラカンにもエリクソンにも、共通する見方ですね)。もっとも、それをいいことに名無しのネット弁慶になる人もいるのでしょうけれども、そういうのは生理的に苦手なものでして(笑)。

 更に言えば、そのようなコミュニケーション上のギャップにこそ、昨今のようなわけの判らない犯罪が発生する原因を探ることが出来るのではないか、とも思います。僕にしてみれば、電車の中で携帯電話で、大声で明らかに下らないと思われる会話をすること、運転中に前の車を煽ること、秋葉原で人を無差別に殺傷することとは、同じ精神構造によるものだとしか思えないのですけれどもね。要するにその時、周りにいる他人は、単なる物体であるわけです。それに危害を加えて、何が悪いんだ、という反論は、我々にとっては異常でも、彼らにとっては正当なのかも知れない。そういうのは苦手なのですね。



 パースン・トゥ・パースンのコミュニケーションの問題といえば、僕の「引き出し」もそうかも知れませんね。

 多分、僕の東洋思想や身体技法、世界の神秘思想に関する情報量は、本や体験、出会った人からの教えを含め、半端ではないと思います。でもそれは、誰にも話しません。別に独占しようと考えているわけではなく、訊かれないから答えない、という単純な理由でしてね。

 ディスカッションの中でも、この人はこう考えているみたいだけれど、これをこうすればもっと効率的で確実なのに、と思わされることは頻繁にあるのですけれど、特にそれには触れません。僕はそう考えたとしても、その人にとっては余計なお世話かも知れないですからね。

 ただ、精神科医のK氏や、最近お会いした物理学者のU氏のように、根掘り葉掘り訊かれれば、根掘り葉掘り答えます。彼らのリアクションが、面白いですからね。僕としても彼らとのディスカッションは、オカルト系の人からは絶対に得られない知見が得られますし。

 そういう意味では、一応気功の師範ですけれど、まあ師範らしくはないですね。教えることには、全く興味がない。僕の興味があるのは、自分の技術や知識を向上させること「だけ」です(横浜教室で師範コースを取ったのは、それしか『遊龍功』の全ての型を学ぶ方法が、当時はなかったからです)。そういう意味では、どちらかと言えば僕は、研究者タイプの人間だと思います。そのような人間にしてみれば、人様を指導したり、啓発することには、全く興味が持てないのですね。そんな暇は無い(笑)。ですからブログも、書かなければ書かないに越したことはないのでしょうけれど、今はマーケティングを考えると、どうしてもそういうわけにはいかないので、仕方なくやっておりますが。もっともこのようなマーケティングも、正に研究の一環ですよね。ビジネスというものは、非常に興味深い(笑)。

 今に、僕自身の活動に十分な基盤が出来たら、先ずやるのは、HPとブログの、全削除ですね。それはやりたい、と常々考えています。その日が来るまで、僕は頑張らなければいけない(笑)。



 「悟り」の話が少し出ましたけれど、古今東西の聖者だとか仙人だとかが、しまいにはその所在がわからなくなる、というのは、僕はその意味がなんとなく判るような気がします。

 つまり、ものの見方が変わると、世界はエネルギー(それはプラナや気、法と言っても同じことですけど)の、単なるゆらぎにしか見えなくなるんですね。それに執着する必要が、一体どこにあるのかと。そうなれば彼は、人前に出ることに、大して興味はなくなりますね。出ても出なくても結果的に同じであれば、面倒じゃない方が良い、とこういう考えになるのではないでしょうか。確かにそうなっちゃいますね。

 エネルギーという言葉を使わないのだとしたら、夢です。夢と現実とは、全く同一です。我々は、夢の中に生きているわけです。

 しかし、今度はそのようなエネルギーのゆらぎ、あるいは夢を、パターン化して見ることで、逆に、他人の運命を読んだり、未来を予知したり、あるいは人をコントロールしたりするわけです。そういう意味では「悟り」とは、哲学などではなく、むしろNLP的な、心理的テクノロジーであると、僕は思いますね。



 というわけで、猛暑が続きますが、どうかご自愛下さい。

                            中原勇一




 ↑よろしければ、是非



at 12:19, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(15)〜霊能と精神疾患(2)、外気発射の段階



 まあ確かに、レアといえばレアなのかも知れませんね。逆にそれを、レアじゃない普通の出来事だと考えていた僕の方が、異常だったのかも知れませんけれど(笑)。

 そうですか、『エースを狙え』の作者の方は、そっちの方向へ行ってしまわれたんですね。残念なことです。因みに僕の友人の場合は、母親ですね。何でも母親がハマっていた民間宗教の教祖さんが、近年亡くなったと。その後釜に、何と自分の娘を据えようとしていたみたいですね。母親と一緒になって宮崎の何たら神社への参拝だ伊勢の奥宮への滝行だとか言っていましたけれど。今から考えても、完全に母親のロボットでしたね。

 先だって、ある心理療法に詳しい女の子と、その話になったのですが、彼女は、例えば、赤ちゃんがハイハイをしてお母さんから離れていって、ふと振り返る、その時の母親の表情で、その子の一生が決まる、みたいな説を、読んだことがあるらしいですね。つまり、そこで嬉しそうな表情をする母親であれば、要するに我が子の自立を喜んでいるわけですから、そのような母親の子供であれば、精神病に至る可能性は少ない。

 問題は、ここで悲しそうな表情をする母親がいる、ということですね。それは、我が子が自立することを快く思っていない、ということになります。子供はそれを、敏感に察知するわけです。そうなると、自分はお母さんから離れてはいけない、お母さんを悲しませてはいけない、と考える。これでその子は、自立が困難になります。当然そのような経験は、思い出すのが難しい領域へと、潜在化します。あるいは、抑圧されると言っても良いのかも知れませんけれど。そのような子供は、後々精神病を発症する可能性が高い、ということです。さもありなん、と思いましたね。

 実はこれが、正にその友人に起こったことと似ていますね。完全にトランス状態になっていた時に現れてきたおじさんだったかおばさんだったかの「霊」が、母親に向かって、「この子をこんなにしたのは、お前のせいだ!」と怒鳴り散らしたらしいんですね。さすがの母親もこの時は怯えて、トランスから醒めた彼女を抱きしめて、「ごめんなー!」と叫んで泣いたとか(もちろん本人はその霊の言葉は、後になって聞いたらしいのですが)。ですからこの場合、おじさんあるいはおばさんの霊の存在を仮定する必要は、全くありませんね。それはまさに、本人の潜在意識の声が、別の人格の形を借りて、現れただけです。

 しかしながら、喉元過ぎれば、というやつみたいでしたね。彼女は結婚にも失敗したのですが、その相手も、親が勝手に決めたとか。その別れた理由も、首をかしげるようなものでした。まんまと彼女は再び、母親の元へと帰ってきたわけです(あるいは深読みすれば、そうなるように母親によって、最初から仕組まれていたのでしょうか)。

 さらに不思議なことには、そういう話を延々とする割には、僕に対して、あんたは全く信用出来ない、みたいなことを、始終言っていたということですね。だったら何故、そんな信用出来ない人のところに、一日12時間近くその手の話で(12時間ですよ(笑))電話してくるんでしょうね。電話代の件で、母親にはかなり、怒られていたそうですけれど(笑)。

 僕は素直な人間なので、じゃあ信用出来ないんだったら、お互いに無理せずに、連絡取り合うのは止めよう、と言ったら、今度は泣いて怒るわけです。何故私の気持ちがわからないんだ、と。わからないからこそ、そうしようと言っているわけじゃないですか(笑)。

 この点から考えても、彼女の中には、複数の人格が存在するわけですね。これでは霊障どころか、完全に解離性人格障害です。

 実は、最後に会った日に、彼女はその前日僕が使った言葉を引き合いに出して、あなたは私を精神分裂病患者だと言った、と非難していましたね。でも僕は、話してる内容が支離滅裂だぞ、と言っただけなのです。それを彼女は、僕が自分を病人扱いしている、と取ったみたいですね。

 それだけではありません。ある僕達に共通の知人がいるのですが、彼に彼女は、その前日の状況を、「話をしていたら、突然中原さんが烈火の如く怒り出して、私の話をまともに聞こうともせず、レストランから飛び出して行った」と話していたそうです。そうなさったのは、彼女の方なのですけれどもね(笑)。しかし逆に、それを聞いたその知人は、おかしいな、中原はそこまでカッコよくないのに、と思ったらしいです。さすがというか何というか(笑)。要するに、自己と他者の区別が、出来なくなっているわけですね。

 それから数年経ちましたが、今はその人がどうなっているかは、全くわかりませんね。特に知りたくもないですし。録音機材も預けてあるのですが、回収に行く気にもなれません。第一、何をされるかわからないですからね(笑)。

 そんなことがあったので、霊感を標榜する人に会ったら、尊敬どころか、警戒心を抱くようになってしまいましたね。でもその警戒心も、案外的外れではないのが、さらに悲しいことでして(笑)。

 基本的にこの手の人達は、自意識過剰かつパラノイアックですから、友達がいないんですね。ですから似たようなメンタリティの人とだけしか、付き合えない。類は友を呼ぶ、というわけです。で、最初はものすごく、意気投合するんですね。私達は前世で、同じ聖者の元で修行していたのかも、みたいな。でも三ヶ月くらい経ったら、あいつは絶対に地獄に堕ちる、とお互いに非難し合うわけです(笑)。

 ここら辺は、私はこの人と一緒になるために生まれてきたの、と言いつつ、さんざんおもちゃにされて数ヵ月後にはまんまと捨てられる女性と同じパターンですね(その手の方達も、数名知っていますが。当然僕はその余波を喰らって、ひどい目に合わされました(笑))。要するに、バランス感覚が乏しいんですね。余談ですが、自称アーティストの方の中にも、この手の方は多い。残念ながら(笑)。

 もしかしたら彼女はもうすでに、『尊師』と呼ばれているかも知れない。兵庫近辺で、若手の気鋭の霊能者が現れた、という話が出たら、十分に気をつけて下さい(笑)。



 霊能者叩きはこれくらいにして(これブログに書いたら、自宅に放火されますかね(笑))、気を発する段階の話ですが、今師匠の本が手元にないのでうろ覚えで申し訳ないのですが、気を発するには少なくとも、三段階あるそうです。

 一つは手功、これは、手を使った気の放射です。まあこれは良くある、ありふれた段階ですね。

 その上が目功、これは目です。つまり、気を目から放射するというわけですね。実際一指禅功では、目を鍛えるのをその主眼としています(言うまでもなく、内勁一指禅功ではなく、うちの流派の場合です)。

 そして最後の段階、これは名前は忘れたのですが、全身から気を放射する、という段階ですね。恐らくこれは、全身を気化するという、さらに上の行とも関係があると思うのですけれど、まあわかりやすく言えば、その人自体が『龍穴』になってしまうわけですね。

 僕がその段階になったかどうかは僕の口からは言えないのですけれど、もしかしたら、僕と練功していた福岡の精神科の女医さんが目の前で突然倒れたりしたのは、それなのかなと。この時僕は指一本触れていないし、彼女との距離は1メートル近くありましたからね。

 実は数日前も、似たようなことがありましたね。赤坂のあるオフィスに行ったのですが、そこのスタッフの女の子が不思議そうな顔をして、「中原さんのそばは気分がいい」と言い出しました。その時は、あーそう、で終わったのですが、その後の懇親会でも、彼女は僕のそばに来て、同じことを言っています。そのうち真っ赤な顔をして、フラフラになっちゃいました。

 あるいは電車に乗ると、僕の隣に座った人は、90%近くの確率で眠ってしまうとか。言うまでもなくこの時、僕は、気を出そう、などとは考えていません。勝手に出ているのです。多分こういうことではないかと思いますね。

 ですから、意念でもって気を出す、というのは、そんなにハイレベルのことではないし、第一不必要なのです。あるいはその勝手に出て行く段階にまで、行を進めることが必要なわけですね。

 そうなると、全身の冷えは完全に収まりますよ。取り敢えずTさんには、そこら辺まではマスターしていただくというのを目標に、セッションを進めましょうか(笑)。



 それでは、お気をつけていらして下さい(笑)。




 ↑よろしければ、是非。



at 14:04, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(14)〜私と肥田春充



 その後練功の方は、いかがでしょうか。

 どうやら練功というものは、その方の今までの筋肉の使い方や生活態度などに応じて、かなり個人差があるようでして、こちらにお出でになって、いきなりヴィヴィッドな経験をなさる方もいらっしゃれば、あまりよくわからない、とおっしゃる方もいらっしゃいます。

 しかしまあこれは、どの分野でも同じかも知れませんけれどもね。きちんとした指導を受けたからといって、誰でもがイチローになれるわけではない(笑)。その影には、絶え間ない努力が必要です。努力というか、根気ですね。

 その際にもお話したことですが、私は一指禅功と出会って、体調はおろか世界に対する認識そのものが、根本的に変化してしまいました。『老子』や『荘子』、あるいは『ドン・ファン・シリーズ』などに描かれている世界は、単なる空想の世界ではないのだな、と。それほどこの技法との出会いは、衝撃的でした。また効果そのものに関してもそうですね。現に親父もお袋も、再発もせず、まだ生きている(笑)。

 とは申せ技法そのものは、誰でも簡単に取り組めるものですので、どうか諦めずに、お試しいただけたらと存じます。

 慣れてくれば胃腸の調子も改善されますので、アイスなども気軽にお試しいただけると思います(笑)。



 さて、Hさんとおっしゃる方の、興味深いお話をお聞かせいただきまして、真に有難うございました。

 思うのですが、やはり私は、そういう方とは全然違う道を辿ってきたのかも知れませんね。

 元々気功に興味を持ったのは、武術方面からでした。私にとっては、気を使って除霊するとかいったことよりも、気を発して相手の内臓をぐちゃぐちゃにする、といった類のことの方に、興味を抱いていました。そんなことが本当に出来るのかと。

 もしかしたらそういう無意識的な思いが、私にチベットへ行くことを断念させていたのかも知れない、とも思います。チベット仏教というものは、どうしても“仏教”というくらいですから、『悟り』など、メンタルな方に力点を置かれがちですからね(もっとも、そうではないものもあるようですけれど。拙火功を応用して、物体に火をつける、とかもありますけれど、それはかなり、お目にかかる可能性が低い)。

 前回お会いした時にお話したかどうかは忘れたのですが、気功にしても、師匠の門を叩くまでに、私は一度、他の技法に手を出しているのですね。

 それは『肥田式強健術』という、日本で作られた技法です。

 もしご興味がおありであれば、一度お調べになられるのも一興かも知れませんが、これを作った肥田春充という人物は、明治から昭和にかけて生きていた、実在の人物です。写真も残っています。子供の頃非常に病弱だったのですが、ある事件がきっかけでそのような自分を恥じ、肉体改造に取り組み始めます。その結果、自分の体を強健にすることに成功したのですが(そのメソッドは、旧日本軍の軍事教練にも、取り入れられています)、その過程で、異常な能力を獲得し始めます。伝わっているものだけでも、高速数理計算、読心、未来予知、果ては空中浮揚だとか海を割っただとかいう話まで、伝わっています。

 しかし彼が言うのは、これは全然異常ではない、ということですね。正確に『正中心』(彼独特の“丹田”の概念です)の鍛錬を行えば、誰でも必ず獲得できる、当たり前の能力だ、と彼は常々主張し、その力学的かつ生物学的な説明まで試みています。

 しかし、その努力を理解する人はその周囲には誰もおらず、彼は孤独な最期を遂げます(彼は、来るべき日本の未来を見て、絶望したのだと伝えられています)。

 私は彼の、自分が獲得した能力を、あくまで科学的に説明しようと試み続けたその姿勢に、非常に共感したのですね。

 その肥田式強健術が紹介されている文献を読んで独習してみたり、都内で実際に肥田式強健術を教えている教室に行ったりもしましたが、全く満足の出来る内容のものではありませんでした。途方にくれた私は、一旦回り道かも知れないけれど、中国の気功から入ったら、肥田式強健術の謎が解けるかも知れない、と考えました。そして気功を手がけるようになったのです。

 そういう意味では、気功は私の場合、目的ではなく、単なる手段だったのです。

 ですから私が気功を、メンタルな領域から完全に切り離して論じようとするのは、完全に肥田春充の影響ですね。

 そのような過程を経てきたものですから、私は基本的に、霊能と呼ばれるものには、さほど興味はないのです。周囲の方が私に抱いているイメージとは、全く逆かも知れませんけれどね。もし興味があったとしても、それは全て、ミルトン・エリクソンの“症例”で、完全に説明できる、と考えています。

 最近ある集まりで、某大学の理工系の名誉教授や、助教授とお話する機会がありました。彼らは流体力学や複雑系、カオス理論の研究者なのですが、私にとっては彼らの話の方が、霊感系の人達の話すことよりも、ずっと勉強になります。

 彼らは基本的に、オカルトめいた話を信じようとはしません。だからこそこちらも、本気になって議論しなければならない。私が、気は電磁波の一形態で、いわゆる仏教の『悟り』というものも、世界を数学的にパターン化して観察しようとする意志そのものである、という話をしたら、衝撃だったみたいですね。当然その場は、すぐに練功会場になりました(笑)。名誉教授の方は、私の手から熱を感じる程度で終わりましたけれど、助教授の方は、気を一気に背中に通すくらいまで行かれましたね。こういうものはやはり存在するのかと、かなり興味深そうにされてましたね。

 今後その方達との交流が、どのような展開になるのかはわからないのですが、私としてはとてもやりがいのある作業だと考えていますね。




 というわけで、気功におけるTさんの今後の展開を、楽しみにさせていただいております。

 それと、これはお願いなのですが、Tさんにお出ししたメールをいくつか、『ある精神科の先生との対話』と同じシリーズで、ブログの方へと転載させていただけませんでしょうか?

 私はどうも、不特定多数の方に向けて書き物をする、というのが元来不得手で、いろいろなアイディアに関して自分の意見を述べるというのは、たいていメールのお返事の中なのです。

 いうまでもなく、Tさんからいただいたメールは公開いたしませんし、こちらからのメールにある個人名は、著名人を除いて、全て伏せます。今後の読者の皆様への有益(かどうかは心許ないのですが)な情報提供となるかも知れませんので、何卒ご理解ご協力を賜れば幸いに存じます。



 それでは暑い日々が続きますが、くれぐれもご自愛下さいませ。

 有難うございました。               敬具




 ↑よろしければ、是非。



at 11:12, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(13)〜霊能と精神疾患、気功と音楽



 猫にマタタビ、霊能者に薬、でしょうか(笑)。実際問題として、どうしてそうなってしまうのか、非常に僕も不思議ですね。

 これは、霊能者関係だけではないですね。僕は武蔵野市にある音楽療法グループにオブザーバーとして参加しているのですが、そこで聞いた話ですと、音楽療法をやる人の中には、精神安定剤を常用している人が少なくないらしい。そんな人が「療法」を名乗っているのですから、おかしなものです。

 僕が前ツルんでいた(付き合っていた、とは言えないのが奇怪といえば奇怪な関係なのですけれど(笑))女性もそうでしたね。一度ひどい憑霊現象があったそうです。その様子を事細かに教えてくれるのですが、よく彼女と一緒にいたかつての大学時代であれば、「すごいなー」と反応していたであろう僕も、精神療法の現場を経験した後では、それは十分に「発狂」なわけですね。それを家族中で「神が降りた」とかやっているわけですから、まあ言わば、ご一家でイっちゃってらっしゃるわけです。そういうひょうきんな家族愛もあるわけで(笑)。

 結局僕がHPやブログで、気功をメンタルな領域から切り離して論じようとしているのは、そのような人達と一緒にされたくないからなのですね。第一気功のトレーニングには、メンタルな要素はおよそ必要ではないですし。もっとも、ちょっと考えただけで気が発せられるような上級者になれば(あるいは、そんな現象が本当に存在すれば)、話は別ですが。

 でもいくらそう書いてみても、取る人は「こいつも同じ穴のムジナだ」と取るでしょうしね。それで僕も、友人を多く失いましたし(笑)。

 もっと言えば、師匠もそうかも知れないですね。「あんたは『天目』が開いているが、それは危険なパターンだ」と初学者の頃言われました。『天目』が開いているからこそ、そういう魔境に入りやすい奴だ、と思われたんじゃないでしょうか(笑)。だからこそ僕は、その『天目』を使わずにすむように、トレーニングを工夫してきたわけですね(それでも、話す前から相手の症状が読めたり、あるいは過去や未来が見えたり、というのは、避けられないことなのですが。しかしそれは単純に、エリクソニアン的なパターン解析の産物です。逆に多くの人は、そのパターンの中でしか生きられないのですね)。

 まあそういう意味では、僕は両方の世界の中間に属している、と言えなくもないですね。あるいは中沢新一氏的な言い方をすれば、「境界膜そのもの」というか。だから僕は、薬は使ったことがないですよ。使う必要なんて、最初からありませんし。もっとも個人的な趣味として、LSDは面白そうかな、とは思うんですけれど、試したことはないです。ビートルズ・フリークですからね。"Lucy in the Sky with Diamonds"とか"It's All Too Much"みたいな世界を、是非一度体験してみたい(笑)。



 気功をするようになって僕の音楽活動に変化があったか、というご質問ですが、大いにあると思いますね。最も大きな変化は、楽器を弾かなくなったことです(笑)。というのはそれをやると、筋肉が緊張しますからね。あれが非常に不快なのです。ピアノもそうですね。ピアノを弾いていると、足が冷えて、経絡がだんだんおかしくなってくるのがわかります。ですから長時間引き続けるのは無理です。気持ちが悪いので(笑)。まあピアノやパーカッションは音楽療法の仕事で使うので仕方がないのですが、ギターは数年近く、まともに弾いたことはないですね。大学時代はギター部だったくせして。そういうのは完全に、太古の話です(笑)。

 そのような次第で、最近は作曲する時は、PCオンリーです。坐功の姿勢で出来ますからね(笑)。でもこれも、完全ではないです。やっているとやはり、全身が冷えてくる。これは恐らく、全身の血液が脳に集中するからだと思います。逆に考えれば音楽というものは、かなり脳に負担をかけるものだと思いますね(もちろんこれは、作る側の話ですけれど)。ですから作曲した後に坐功をすると、身体の変化がはっきりとわかりますね。全身が喜んでいる(笑)。この変化は、僕の全身にサーモメーターか何かを取り付ければ、如実に観察できると思いますけれどね。

 更に言えば、音楽活動そのものが面倒になってきている、というのは言えると思いますね。はっきり言ってこれは、執着以外の何者でもないわけですし。機材運びも面倒だし(笑)。だけどそれを止めてしまえば、今まで作ってきた曲がもったいないですからね。ですからこれは僕の『業』だと思って、半ば諦めつつ続けているわけです。言わば『もったいない精神』ですね(笑)。



 最後にセッションの内容ですが、一応ご説明させていただくと、30分であれば施術のみ、60分ないしは90分であれば、施術に加えて一指禅功の内丹功のご指導、ということになります(60分と90分との違いは、単純に後者の方が、動功を含めたりと、時間的により詳しいご指導が可能、ということです)。お出でになった際にお伺いしてからセッションを始めようと思っていたのですけれど、あらかじめ念頭に置かれた方が、Tさんのスケジュール上いいですものね。説明不足で失礼いたしました。m(_ _)m



 というわけで、他にも何かございましたらご遠慮なくおっしゃって下さい。それではまた!




 ↑よろしければ、是非。



at 19:32, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(12)〜困った霊能者たち



 おっしゃることには、全く同感ですね。

 結局、自称霊能者にしろ音楽家にしろ、僕も苦手なのは、彼らの奇怪なまでの「自信」なんですね。

 僕はそういう関係のブログとかにはあまり詳しくないのですけれど(目にするとしたら、ほとんどTさんのご紹介ですね(笑))、それでもいくつか読んでみると、この自信は一体全体どこから来ているのだろうと、不思議に思うことがありますね。

 しかし、ブログの場合は、流し読みで終えることが出来ますけれど、マンツーマンではそうはいかない。今まで、随分とひどい目に会ってきました(笑)。

 でも更に不思議なのは、そうやって自信満々に予言する割には、最後には例外なく、「こんなはずじゃなかった」と来るんですね。だったら最初から、謙虚に物事を見れば良いのに、といつも思うんですけれど。

 予知に関しては、全くTさんのおっしゃる通りです。つまり、言葉ではない無意識的な情報を、彼らは同じく無意識的に読み取る能力に、長けているんですね。それが意識上に上る時に、特殊なビジョンだとかに変換されているだけの話で。

 更に言えば、この無意識的な情報というのは、全く神秘的なものではなく、例えば服装だとか、化粧だとかもそうですね。あるいは呼吸の仕方とか。以前ご紹介したミルトン・エリクソンは、クライアントのそのような微細な情報を読み取って、臨床に生かしていたわけです。そういうものは、不思議でも何でもないと、彼は常々主張していました。

 でも世間には、そういうものをどうしても神秘的に語りたがるフリーク達がいるわけですね。

 ですから僕は逆に、心理療法に長いこと携わってきた経験から、そういう方達の精神分析こそやってみたいと思いますね。あるいは社会学的に、そういう方達の一生の行動パターンを解析するとか。

 もっとも、自分なりにやってますけれどね。興味本位の怖いもの見たさで。この辺は、霊能者と呼ばれる人のところにわざわざ出向いていって、それを逆手に取ったいたずらをしまくっていたというエリクソンと、嗜好が似ているような気がしますけれど(笑)。



 そういう意味では、やはり僕の場合、気功から入ったのはベターだったように思います。というのは気功の場合、フィジカルな程度が大きいですからね。「功夫」というくらいですから。

 腕立て伏せと同じで、やればやるだけ効果は出ますので、更にそれを手掛かりに、練習を進めることが出来ますからね。逆に、イメージを多用するものだと、それがトレーニングによる結果なのか、単なる「勘違い」(笑)なのかが区別しにくい。

 もちろんメンタルなファクターは無くもないのですが、あえてそこは分けた方が、混乱がないのかな、と思いますね。

 ですから僕がご指導する場合にも、一指禅功には、そのようなメンタルな要素は全く介在されていませんので、Tさんには新たな気持ちで取り組んでいただけるのではないか、と思いますよ(笑)。



 では一応、○○日の午後○時ということで、予約を受けたまりますね。

 もし遅延の場合でも、お電話頂ければ結構ですので、ご心配には及びませんよ。お気軽にお出で下さい。

 因みにJRですと、東京乗換え、品川乗換えでも、どちらでもご利用いただけます。千駄ヶ谷の駅自体は、総武線になります。あ、よくお出でになるんでしたね。失礼しました(笑)。

 それでは、お会いできますことを楽しみにしていますね。とは言っても、まだ一ヶ月近く先ですけれど(笑)。



 ではでは!




 ↑よろしければ、是非。


at 10:56, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(11)〜「波動」と「気」の差異



 中国って、ブログの記事ですね。

 実はあの精神科の先生に宛てたメールは、昨年の8月に書いたものなのです。ですからあれは去年のことでして、今年は行っていません。誤解があったみたいで、申し訳ございませんでした。

 だけど、今中国は、大変なことになっていますね。

 昨年行ったのは湖南省だったんですけれど、その道すがら、多くの建設途中のビルを見ることが出来ました。

 皆さん、竹で組んだやぐらの上で、手でコンクリートを外壁に塗りたくって、その横では博打をしている・・・。

 そのようなところを大地震が襲ったらどうなるか、というのは、映像を見なくても、十分に想像は出来ます。

 一刻も早い復興を、心から願いたいところです。



 ところで、「気」と「波動」との、僕なりの差異について、若干解説させていただきますね。

 僕も両者は、意識的に区別して使っています。

 僕の場合「気」とは、完全にその場で確認できます。その人だけではなく、その周りの人も同様ですね。僕がその場で指導して、それでも気の実感が全くわからない、という方は、僕の経験上、ほとんどおられなかったですね。そういう意味では僕の場合、「気」とは、完全に実感を伴ったフィジカルなものです。

 しかし、「波動」というのは、僕はよくわからない。ただそれだけの違いといえばそれまでなのですが(笑)、実際ネットその他で「波動」という言葉を使っているものを見ると、かなりムード的なものが多いのではないか、という感じがしますね。実感がこもっていれば、このような書き方にはならないのではないか、というものを、実際多く見ますし。

 ちょっと例えが飛躍するかも知れないのですが、僕はご存知のように音楽もするのですけれど、例えば音楽家の中には、「音楽には人を動かす“パワー”がある」という人がやたらと多い。しかし、ではその“パワー”とは一体何のことなのか、については、彼らは全く説明しないわけです。そういう楽天的な発想は、僕はすごく苦手でしてね。

 多分ここら辺は、もしかしたらTさんが、霊感が強い人は苦手、とおっしゃるのと同じかも知れないですね。その霊感の出自や中身についてはあまり触れない。そんな時僕は、しなければいいのにどうしてもそういう素朴な疑問を口にしてしまったりするものですから、すぐに叩かれたりするわけです(笑)。

 もっとも、「気」というのは、先ほども触れましたように、触角に拠るところが大きいものですから、そのような体験が少ない方には、「気」と「波動」がどう違うのか、は大きな問題になるのかも知れませんね。それを説明しようとすると、余計混乱を招くだけでしょうし。

 因みに先だって、赤坂の某ベンチャー企業のパーティに参加した際に、僕がいるものですからそこで当然、「気とは何か?」みたいな話になったのですが、それに対する僕の返事は、ただ一言「やってみりゃわかる」。

 結局みんなでキャーキャー言いながら、気で遊んでいましたね(この時は、女の子が多かったのですけれど)。このように、伝わる時は一瞬で伝わるんです。これが「気」というものです。

 ですから、Tさんも大丈夫ですよ(笑)。



 しかし、その速読の練習のし過ぎで映画がまともに見られなくなった、とおっしゃるお知り合いの方も、すごいですね。そういうユニークな方は、大好きです(笑)。

 まあそれも確かに、一種の、「感覚を研ぎ澄ます」ということになるでしょうね。

 その方は映画を楽しむのが難しくなったのかも知れませんけれど(笑)、そのような新たな知覚でこの世界を見ると、どのような見え方をするのか、というのは、非常に興味がありますね。

 もしかしたら、映画以上の楽しい世界に、実際に住むことになったのかも知れず(笑)。そういう方のお話を是非一度、直接伺ってみたいという気はしますね。



 ○月○日ですね。こちらは大丈夫ですよ。お出でになられることが本決まりになりましたら、またお教え頂ければ嬉しく思います。

 先ほども少し触れましたが、気感は恐らく、その日に習得可能だと思いますよ。それをベースにいろんなことにチャレンジして頂ければ、宜しいのではないかという気がします。足先の冷えについても、注意すべき経穴と立ち方を習得していただくだけで、かなり違ってくるのではないか、と思います。楽しみにしていて下さい(笑)。

 それでは、お会いできますことを、楽しみにいたしております!




 ↑よろしければ、是非。





at 21:37, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(10)〜波動と電磁波、スピリチュアリズムと不安



 なかなか面白いサイトですね。「人が発する気は毛細血管を血液が通る時の波動」という着眼点は、結構なのではないでしょうか。実際僕も、そう思っています(笑)。

 ただし僕ならば、『波動』という言葉は使わないですね。というのは、『波動』というと、電磁気学からニューエイジまで含んでしまう恐れがあるので、非常に誤解を招きやすい言葉だと思うからですね。

 僕の経験から気というものを電磁気学的に解釈すると、こうなると思います。まず、血液はぶっちゃけ、荷電粒子の流れです。それが人間の体内という不純物を多く含むものの中を流れた時、それら不純物にぶつかって向きを変える、ということは多々生じると思います。この時、荷電粒子が向きを変えると、慣性の法則によって、電磁波が放出されますね。

 僕は気というものは、これではないか、と考えています。

 これには、もっと面白い現象があります。例えば、放射性物質を水の中にいれておくと、その周囲がぼうっと青白く光る現象が観測されます。これは『チェレンコフ効果』といって、先の電磁場の運動と関係があるのですけれど、僕は、よく言われる"オーラ"とは、このことではないか、と考えているのです。

 さらに僕の場合は、この考察を単なる考察に留めたりはせず、実際に練功に応用しています。つまり、練功の際に各関節を緩めろというのは、畢竟、血液の流れを良くするためです。各関節を十分に緩めた状態で練功すると、すぐに指先は真っ赤になって、なおかつパンパンに膨れ上がってきます。この状態でなければ、施術は出来ないのです。

 余談ですが、この意味で言うと、単に筋肉をストレッチするというのは、この目的から若干外れる可能性がありますね。というのは、重要なのは筋肉ではなく、むしろ血管の方だからです。ですから、筋肉は「伸ばす」のではなく、「緩める」ことが重要です。この差異がわかれば、練習はずっとやり易くなるかも知れません。

 ですからTさんの場合も、ともかく全身を緩めることを念頭において、練習を続けてみて下さい。



 速読の話も面白いですね(笑)。確かにそういうことはあると思います。よくよく調べてみると、そのような効果を狙った練習というものも、古今東西よく見られますね。

 例えば、チベット密教でポピュラーな練習として、ろうそくの炎を見つめ続ける、というものがあります。これはパッと見、ろうそくの炎への精神集中のトレーニングかな、とも思うのですが、実はそうではないのではないか、と思いますね。

 というのは、試してみればおわかりになりますが、その時ろうそくによって生じた薄明かりが、風その他の影響によって、ゆらゆらとたゆたいますね。これはそのたゆたう光を、眼球の桿体細胞で捕らえることによって、それを強化することを主眼としているのではないでしょうか。

 これを続けていると、それをしない人であれば見過ごしかねない、外界の微細な動きをキャッチする、ということが可能になるかも知れませんね(この発想のヒントは、W.ウェンガーの著作です)。ですから、その速読のプロとリトルリーグの男性タレントのエピソードは、十分に理解出来ますね。

 要するに、微細なものを識別するトレーニングですね。これに習熟すれば、いわゆる「感覚が研ぎ澄まされる」という状態が達成されやすい、ということは、言えると思います。



 なるほど、確かに最近のニューエイジは、通過儀礼的な側面を持ち合わせているかも知れませんね。

 ただ、僕の意見では、それはむしろ、極めて理想的、あるいは優等生的な人々なのではないのかな、という気がします。

 というのは、僕はこのような仕事をしていますので、その関係上その手の方々と直接触れることが多いのですが、その方達のニューエイジの捕らえ方は、こう言っては言い過ぎかも知れませんが、まあ非常に疑問に感じるところが多々あるわけですね。

 要するに彼らは、それにただ単にすがりたいだけなのではないかと。

 これは明らかに、戦後教育の弊害ですね。戦後、科学を国内に急速に導入したことで、『妖怪』達はその生きる場所を失いました。異界が消滅したわけですね。結果として生じたのは、無限に延長された日常生活です。そこへ持ってきて、極端な民主主義教育ですね。今では先生も親も生徒も、法の下では全て、平等です。理屈としては確かにそうなのですが、このような全てのものが平等という社会は、逆に、メンタル的な意味での混乱を招く危険性があります。

 例えば、昔の徒弟制を考えてみると、弟子が師匠に従うのは当然でした。そういう環境に身を置くことで、弟子は師匠の教えを、体で学んでいったわけですね。しかし今そんなことを言えば、前近代的な封建主義者だとでも言われてしまう(笑)。それでは民主的に、ということで、弟子が師匠の下で自由にするとすれば、彼は師匠から、一体何を学ぶのでしょうか。それ以前に、もしそうだとすれば、学ぶべき師匠なぞ最初から要らない、ということになりますね。だからといって好き勝手にやることは、単なるわがままであり、文化でも教育でもないわけです。

 様々な伝統分野では、後継者不足に悩んでいますが、その問題の大本の一つは、ここにあるのではないかという気がします。

 このメンタル的な混乱は、かなり大きな問題だと思いますね。教職員が教壇で、タバコを吸うのは健康に悪いからいけない、と子供に教えます。その当人が、職員室でタバコを吸うわけです。これを見た子供がいかに混乱するかは、想像に難くありません。その混乱を想像出来ないのは、その教職員だけです。

 ですから僕は、今の学級崩壊といわれる現象は、戦後教育の過程を考えると、極めて自然な流れだと思いますね。なぜなら教室の中では、全て平等なのですから。そして、矛盾は世の中の常なのですから。子供と教職員、そして親との関係は、全てお友達感覚で、さらにその教職員や親が言行不一致なのだとすれば、「なぜわざわざ、あんたの言うことを聞かなきゃいけないの?」という子供たちの大人に対する疑問は、至極当然だと思いますね。

 しかしそういう子供たちも、いつかは大人にならなくてはなりません。大人になれば、今まで以上の不特定多数の人間と接していかなければならない(それに失敗した人たちが、ニートや引きこもりとなります)。それはまさに、濁流です。それを何とか克服する方法を見つけなければ、命が危うい。

 僕は、最近のスピリチュアル・ブームの背景にあるものは、この不安感だと考えています。すがりたいだけ、というのは、そういう意味ですね。

 ヘヴィなことを言っていますけれど、これはある意味、実体験でもあるのですね。先日も僕の友人が、占い師(その占い師はテレビにも出ている有名な人らしいのですが)に引っかかって、大変なことに巻き込まれかけました。僕に言わせれば、そんな状況になるまでなぜその占い師にハマるのか?ということになるのですが、それは要するに、彼女の心に隙があるからですね。つまり、彼女自身の中に、価値基準が無いのが、根本的な問題なのです。

 これは前回お話した、審神に通じることかも知れませんね。多分精神的なトレーニングの中で、一番難しいのは、今も昔も、この審神力かも知れないですね



 というわけで、季節の変わり目で風邪が流行っていますので、どうかお気をつけて(笑)。それではまた!




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at 21:31, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(9)〜神を駆る懐疑論者



 なるほど。『審神力』、この発想は重要ですね。特に昨今のように、ネットによって情報が溢れ返っている状態では、なおのことかも知れないですね。

 因みにこの言葉、最近まで全然知りませんでした。教えてくれたのは、神道マニアの友人でした。そのきっかけは、ブログにも書いた、霊感系の女性とのトラブルだったのですが(笑)。

 詳しいことは、お手隙の時にでもそちらをご参照頂くとして、僕としても非常に考えさせられるものがありましたね。

 元々彼女とは、僕のプレ東京時代からの付き合いでした。その当時は気功などというものは知る由もなかったのですが、そんな僕に彼女が語ってくれる霊感の世界は、非常に魅惑的でしたね。

 ところが東京に行って、偶然にも心理療法の現場に立ち会うことになり、遂には気功に手を出したことによって得た様々な経験が、僕のメンタリティを完全に変えてしまったようです。

 そんなある日、また彼女と再会して妙なお付き合いを再開することとなったのですが、そのような僕の目に映る彼女の姿は、尋常ではありませんでした。

 結局お付き合いはめちゃくちゃになってしまったので、それから後彼女がどこで何をしているのかはわからないのですが、つらつら考えてみるに、僕の周りには彼女だけではなく、そういう人が多かったな、という気がしますね。

 そこに欠けていたのが、まさに『審神』という発想です。

 数日前さる方と食事をしていた時にもそういう話になったのですが、もしかしたら今の人は、何かにすがりたい、という気持ちが強いのかも知れませんね。それが占いだとか風水だとかいったものへの興味へと、漠然とつながっているのかも知れない、と思います。

 もちろん気功も、その一つですね。

 ただ気功の専門家として指摘するならば、気功や仙道、大乗仏教の世界は、そのような一般的なイメージとは全く逆です。つまりこれらの志向するのは、絶対的な自由なのです。何者にもとらわれない自由な心。それを獲得するために全ての行体系が組まれているといっても、過言ではないと思います。その絶対的な自由が獲得できた状態が、本当の幸福なのであり、それが大楽ということです。

 ですからその観点で言えば、いくら相手が神であろうと、それが自分を束縛している主体であるとすれば、それは退けられなければならないわけです。

 余談ですが、六道輪廻という言葉がありますね。仏教の描く迷いの世界、具体的には、地獄界、修羅界・・・といったものなのですが、あれの一番上に来るのは天界といって、神の世界です。ところがそれは、まだ迷いの世界なわけです。

 しかし、菩薩という存在は、この輪廻そのものを超え出ることが求められます。

 密教なんか、もっと極端ですね。密教では、その神々を使役する方法も、行体系にあります。主人は自分、神は従者なのです。もちろんそれは、「悟り」という究極の自由を勝ち取って、それでもって一切衆生を救うためです。そこには、神々に「頼る」とか「従う」といった発想は無いのですね。全く同じ方法論が、中国の仙道とかになると、現世利益に使われるわけですが。この辺の差異は、面白いですね(笑)。

 そういう意味では、徹底的な懐疑論者の方が、こういう世界を追求するには向いているのかも知れませんね。ともかく、相手が何であれ、自分の目で確かめる、主導権を放棄しない、というスタンスが重要だと思いますね。僕の経験上も(笑)。



 体が硬いということで、だいぶ格闘されてるみたいですね(笑)。

 ただ、僕の体が柔らかいかというと、そこら辺はなかなか微妙ですね、前屈できないし(笑)。その逆も真で、例えば僕の知り合いのダンサーなんかは、体はものすごく柔らかいのに、肩凝りがひどい(笑)。

 だから、筋肉そのものの硬さと、緊張が解除されている状態、というのは、微妙に違うのかも知れませんね。

 手足の末端が冷えるのは、緊張しやすいせいではないか、とおっしゃっていましたが、多分そうだと思いますね(いわゆる、「気が上がる」という状態になりやすいわけですね)。

 ですから、そのリラックス感が上手く習得出来れば、末端の冷えは解除できると思いますよ。



 そうそう、ご紹介頂いたサイト、興味深く拝見致しました。

 こういうサイトを拝見していつも思うのは、一度作者に会ってみたい、ということですね(笑)。そうすればその方の感じているものと、自分の感じているものとを、比較検討出来ますからね。

 実際、僕が感じているものがクンダリニかどうかはわからないのですが、こいつをやると全身がものすごく熱くなるのは確かです。内分泌腺なんかと関係があるというのも、理解出来るところです。

 ただヨガの方達の場合、このような現象をどのように実生活で応用していらっしゃるのか、それを知りたいですね。僕は寒い時とかに良くやるのですが、その程度のものなのかなと。もしもっと面白そうな現象があるのならば、教えてくれ、みたいな(笑)。

 取り敢えず、お出でになった際に、僕と同じやり方をお教えしますよ。極めて簡単です。そうすれば、お互い比較が出来ますからね。でも、そんな簡単な風にも書いてないし、どうなんでしょうね(笑)。



 というわけで、それではまた!




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at 21:38, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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Tさんとの対話(8)〜護身術としての禅



 Tさんの方が千駄ヶ谷近辺のことを、良くご存知なのではないでしょうか(笑)。

 国立競技場を津田塾側にずっと歩いていくと、そこに国立能楽堂があって、その前です。むしろ、迷う方が難しいかと(笑)。

 そうですか、6月にお出での際は、ご連絡頂ければ嬉しいですね。

 予約は基本的にキチキチにはしていないので、大丈夫ですよ。日取りが近づいた時にご連絡頂ければ、大丈夫だと思います。



 タオ指圧、良く知っていますよ。遠藤喨及さんですね。

 うちに、『タオ、気のからだを癒す』という本があります。頂いたものですけれどね。初学者の頃に読んで、参考になった経験があります。

 しかし、指圧以外にそのような学校をしていらっしゃるとは、知らなかったですね。

 因みに、今ネットを見ているのですが、行ってらっしゃるのは、京都タオサンガセンターですか?メニューもなかなか充実していますね。

 これだけ基礎を積まれていらっしゃれば、きっと一指禅功も、大丈夫だと思いますよ(笑)。



 思うのですが、指圧にしろレイキにしろ、基本は一緒だと思いますね。余分な筋肉系の緊張を取り去って、その周辺の血液や組織液の循環を良くすることで、自然治癒能力を発動させる、とこういうことだと思います。

 親父の腫瘍の場合が、正にそれでしたね。以前から猫背気味だったものですから、胸部リンパ節の辺りに緊張が集中しやすかったのではないでしょうか。

 それを矯正することで緊張が除去されて、組織液が上手く入れ替わったのかな、とも思いますね。




 このように僕は、様々な現象の原理的な部分を抽出することに、興味があります。科学と一緒ですね。一つの原理原則で、様々な現象を説明する、というのが、科学の基本的なスタンスですからね。

 その方が、枝葉末節にこだわらなくても良いので、勉強もしやすいですしね。

 こう考えてみると、セクション化された医学と、科学というものは、出自が同じ割には、何だか矛盾しているように感じますね。不思議なことに。



 一人でバルセロナに行かれたんですね。すごいですね。僕はブログにはいろいろ攻撃的なことを書く割には、そのようなことをする根性がないので、そのような方はすごく尊敬します(笑)。

 手を向けると衝撃が飛ぶ、といっても、多分これは護身用には使えないと思いますよ。これは実は、例の西野皓三さんも言っていることですけれど。何だ、実生活で使えないんじゃ意味ないじゃん、と彼の本を読んだ時は思いましたけれど、これは事実だと思います。

 つまり、相手がそれなりに気を受ける体質でなければ、どうやら衝撃を受けたりはしないみたいですね。

 では、全く役に立たないのか、と言われれば、そうではないです。点穴は元々武術用語で、その由来は武術ですからね。気の影響は相手によりけりですが、どの経穴をどの程度の強さで攻撃すればどうなるか、という方は、物理的に普遍ですからね。相手の懐に飛び込んで経穴に向かって発勁して、内臓をグシャグシャに破壊する、というのは、さほど難しいことではありません。怖いこと言ってますけれど(笑)。

 でも、例えば少林寺などでは、禅こそが最強の武術である、と良く言いますけれど、その意味は何となく判る気がしますね。

 つまり、禅を修めていると、物事に動じなくなるのですね。そのような人は、攻撃するのは難しい。

 これはどういうことかと言うと、彼らは共通の土台に乗らないので、そんな彼らに対して戦闘を仕掛けるのは、実は難しい。これは、甲野先生もおっしゃっていたことなのですけれども、戦闘というものは、自分と他人が、共通の土台に乗らなければ、そもそも成り立たないんですね。売られた喧嘩は、買われた時に初めて、正式な喧嘩になる。例えば、銃撃戦において一番怖いのは、発砲するのが素人の時だそうです。何故か?プロが発砲する時は、発砲した時の反動を考慮に入れた上で発砲しますから、弾道は安定しています。従って相手から見ると、着弾点は予測しやすい。逆に素人だと、発砲した時その反動でひっくり返りますから、結果として弾道が極めて不安定になります。どこに飛んでくるかわからない。何が起こるかわからない。そういうのが銃撃戦では、一番怖いと。うなずける話です(笑)。意図的であるなしにかかわらず、脅しに乗ってこない人が、一番怖い。その後何をしてくるか、予測が出来ないですからね。

 逆に、わざわざ相手と同じ土俵に乗って、そうすることで相手より自分の方に何らかの点で劣った部分があると悟って、不安に駆られてしまうタイプの人がいる。これが動じる、ということです。そこに隙が生まれる。攻撃しやすいのは、この手のタイプの人たちです。

 犯罪者はそこを見抜いてしまうんですね。人間の心理として、隙のない人は、最初から襲わない。よほどのことでなければ、目つきの鋭い人を襲おうとはしないですよね。もう一つ襲うのが困難なのは、行動が不可解な人たち。まさに『臨済録』の登場人物みたいな行動をする人たち(笑)。こういう心理作戦も、古来より「気の力」と呼んでいたのではないか、と思います。

 ですから、そういう意味での護身術としても、禅は使えると思いますね。

 まあ、気の本質はどのようなものか、というのは、なかなか書物その他では伝えられないですね。それもそのはず、触覚に負う部分が多いものですからね。

 でも、一度だけでも体験されると、お判りになると思いますよ。お出でになった際は、そのようなことも実地でやってみましょうか(笑)。



それではまた!




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at 21:37, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, Tさんとの対話

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