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改めて、気功の意味を考える。

JUGEMテーマ:心、体、そして魂。

 

 私が気功の鍛錬をするようになってから、早20年が経とうとしております。

 

 この20年間で、私自身の気功に対する認識は、スタートする前に比べて格段に深まりましたが(そのきっかけとなったのは、言うまでもなく私の直接の先生である廖赤虹先生・廖赤陽先生・故劉永言先生の温かいご指導と、この分野のパイオニアである高藤聡一郎氏や中沢新一氏の一連の著作だったわけですが)、その間に気功そのものを取り巻く環境も、著しく変化したように思います。

 

 そのような中で、私を訪ねて下さるクライアントの皆様には本当に感謝の言葉しかございませんが、皆様から、一言で気功といっても様々な分野あるいは流派があり過ぎて、何を取っ掛かりとして選んだら良いのか非常にわかりにくい、といったご意見を頂くことがあります。

 

 これは、気功を手掛けている我々の側の問題でもあると思います。それが単に混乱を招いているだけであれば良いのでしょうけれども、時として誤解を生む場合があるのではないか、と危惧することもあります。伝説的な人物に直接習った先生ということで入門したけれども、複雑極まる型を延々とやっているにも関わらず、気の感覚が全然わからない、といったケースが、その一つの例ですね。

 

 そこで、今の世の中で気功の鍛錬をする意義がどこにあるのか?それを、私が初心者の方向けにご説明していることを踏まえて、改めてここで再確認の意味で、考えてみたいと思います。

 

 私が見たところ、気功の鍛錬の目的には、大きく分けて、3つあると思います。それは、〃鮃作り、能力開発、9垢覆(特殊な)能力開発、です。 

 

 

 

 

〃鮃作り。

 

 

 もっともポピュラーな理由と思われるのが、この「健康作り」だと思います。これは簡単に実現出来ます。

 

 具体的には、姿勢(調体)・呼吸(調息)・意識(調心)を整えながら気功の型を行うことで、心身の不調を改善します。更に、それによって基礎体温を上げて免疫機能を向上させることで、病気にかかりにくい心身を作ります。

 

 では大体どれくらいでその効果が現れるのか、ということですが、その方の心身の状態にもよりますけれども、きちんと練功を行っていれば、大体一ヶ月程度で効果は見られるようになります。

 

 私は25年近く病院へ行ってもいなければ薬も飲んだこともございませんが、それは極端なケース(なんでしょうか?)としても、私がお教えしたクライアント様の中でも、病院へ行く回数が激減した、という報告は、普通に受けております。

 

 従って、毎日きちんとした練功を続けて頂ければ、極めて簡単に実現出来ることです。

 

 その基盤になるのが、リラクゼーションです。

 

 また、この「健康作り」ですが、日本でこう言ってしまうと非常にありふれた、ある意味健康食品と同じくらいにチープな題材に聞こえますけれども、実はこの分野での研究が最も盛んなのは、かのシリコン・バレーなのですね。「アンチ・エイジング」という言葉に形を変えて、目下巨額の投資が行われている最先端の研究分野になっているようです。

 

 「気」という言葉を古来から使っている日本とは、皮肉なことに真逆なんですね。

 

 

 

 

能力開発。

 

 

 良く言われておりますように、私達は私達が考える以上の能力を持っています。いわゆる潜在能力といわれるものです。

 

 潜在能力開発などというとまた怪しまれる対象になるかも知れませんが、そんな怪しいものではありません。

 

 例えば、気功を使って、常人の数倍の力を発揮すると言えば、それはフェイクだ、とすぐに言われるかも知れませんが、それはご自宅で体重計を使えば簡単に計測出来るような、ごく普通のことです。

 

 それを阻害しているのが、意識です。

 

 その理由は至極単純なことで、「そんなことは不可能だ」と意識で思えば、それを試そうという気持ちは当然失われますから、それが実現する可能性も当然失われるという、単純に数学的な、確率論的問題です。

 

 もう一つの理由は、意識の対象がバラバラだからですね。先ほど体重計のことをお話ししましたが、その実験にしても意識の対象を一点に絞れば、簡単にそうなります。

 

 一昔前にはやりました「引き寄せの法則」というのも、同じメカニズムです。それがどれくらいの時間を掛ければ実現するかは、試行回数が決定します(もっともこれも、1970年代の「マーフィの法則」とか「ナポレオン・ヒルの法則」の焼き直しのようにしか見えないのですけれどもね)。

 

 「意識を解放しろ」とモーフィアスも言っていますけれども、それは単なる映画のセリフでもなければ、哲学でもないのです。

 

 それを実行するに当たっても、常にリラクゼーション(=平常心ですね)が維持出来るかどうか。気の感覚はそのバロメーターになります。深いリラクゼーションの中で、自分のイメージを解放すること。

 

 その感覚を掴むための練功です。

 

 

 

 

9垢覆(特殊な)能力開発。

 

 

 前述の´△亡悗靴討蓮幸いなことに、私は私なりに実現することが出来ました。今のところ病気にもならないですし、子供の頃夢見た嵩山少林寺で、(かの高藤氏の著作の中で一行だけ触れられていた)一指禅功という特殊な気功法を、正統後継者たる故劉先生から直接お教え頂く機会にも恵まれました。

 

 また音楽家としても、普通であれば立つことさえ難しいような東京国際フォーラムで、2回も演奏させて頂くことも出来ました。

 

 これらのことは気功をやっていなければ間違いなく実現出来ていなかったことですから、本当に気功をやって良かったなと、個人的には心底そう思っています。

 

 そのような過程の中で、最近図らずも無視出来なくなって来たことが、このの、更なる(特殊な)能力開発、です。

 

 私は子供の頃から、このような神秘主義的な分野には興味こそあれ、その意味では無縁で過ごして来ました。幽霊を見るとか、幽体離脱をするとかいったことも、一切経験がありませんでした。妙な話ですが、私がお付き合いしていた方は、例外なくその手の方達だったのですが(笑)。

 

 ところが気功をするようになって、自分の体を流れている熱の帯のようなものが知覚出来るようになったり(そのルートが経絡であり、その結節点が経穴(ツボ)です)、更に馬氏気功点穴療法や一指禅功を行うようになって、ある程度それが意識でコントロールが出来るようになったりすると、やはり我々を取り巻く何かエネルギー場のようなものが存在するのではないか、と考えざるを得なくなくなってきました(かつてはそれは電磁波のようなものではないかと考えていましたが、今は場と言った方がしっくりきますね)。

 

 それが特に知覚出来るのが(またそれを知覚するのが眉間というのも、完全に教科書通りでしたね)、施術の時以外では、神社や仏閣、あるいはご神体や仏像だったりするので、もしかしたら人の念あるいは意識というものは、何らかの形でそれらのエネルギー場に影響を与えるのではないか、それどころか意識そのものがエネルギー場なのではないか、そのように考えるようになってきました。

 

 そんな時に、ある場所へ行くと異様なほどの冷気を感じて、そのことを一緒にいた人に話すと、自分には幽霊が見えた、とか言われたりすると、私には見えないにしても(今のところ、ですが)、私の感じたものとそのようなビジョンは全くの無関係とは言えないのではないか、と考えざるを得ないことがあります。


 そういう特殊な知覚能力を開発するのであれば、気功はうってつけだと思います。なぜならばそれが、元々そういう能力が全くなかった私に起こったことだからです。

 

 でも、普通の方であればこうおっしゃるかも知れません。そんなわけのわからない知覚とやらが、この実社会で役に立つんですか?と。確かにそうおっしゃられれば、間違いなくその通りだと思います。

 

 ただ私の考えでは、ここで、古今東西の古典を紐解いて、かつてのいわゆる修行者が何を求めて修行というものを行っていたか、を考えれば、少し見方は変わって来るかも知れません。

 

 つまり、彼らの目標というものは、「生死を超克する」、ということです。あるいは「解脱=輪廻のくびきから解き放たれる」、ということですね。

 

 それを言葉通りに読めば、昔の無教養な人々はそんなファンタジーを信じていたのだな、という単なる笑い話なのでしょうけれども、気の感覚が鋭敏になればなるほど、実はそうではないのではないか、という思いが強くなりました。

 

 つまり、もしエネルギー場に意識を何らかの方法で刷り込ませ、独立性を持たせることが可能なのだとすれば、肉体というものはそもそも必要なくなる、修行者はそれを目指していたのではないか、あるいはそれに失敗して、延々と生死を繰り返している状態(その原動力となるのが、言うまでもなく欲望です)が輪廻と呼ばれるものなのではないか、と想像することも、あながち突飛なことではないのではないか、とも思います(『バルドゥ・トェ・ドル』(通称『チベットの死者の書』)は、正にそのようなトーンで書かれています)。

 

 それどころか、明らかに幽霊とは違った熱の塊のようなものが私の周りをうろちょろするようになると(クライアントさんの何人かはそれをご覧になられたようですが)、やはりそういうことってあるのかな、とも思います。またそれが祝詞やマントラをきっかけに現れたり消えたりするのを見ると、そういうものにはそういう役割があったのか、と納得がいく部分もありますし、更にそれがインドネシア由来だったりすると、正に異次元の国際交流(笑)。

 

 更に言えば、それをファンタジーとして退けるのであれば、では我々が見ている世界はファンタジーではないと、積極的に断言出来るのでしょうか?大乗仏教の古典的な言説を持ち出すまでもなく、現代催眠のPositive/Negative Hallucinationという現象を見ても、私はそう思います。それを一気に明らかにするのが、死です。死ぬ瞬間に私達は、全てがファンタジーであったと気付かされます。死に対しては、社会も、財産も、地位も、名声も、家族も、友人も、全く関係ないですからね。

 

 まあそこまで深く考えなくても、明らかに邪気が渦巻いている中にいても、一緒にいる人は物凄く体調が悪くなるのに、私には全く影響がない、というのは、もう一つの効用と言えるかも知れないですね。

 

 

 

 そして、´↓に共通する重要な点とは、「陽気を強化すること」。これ以外にありません。

 

 


 ・・・というわけで、気功をする意味について、私なりに3点にまとめてみました。

 

 ´△亡悗靴討蓮皆様の日常の中でも、簡単に実現出来ることだと思います。ただに関しては、現在進行形ですので、はっきりとしたことは何とも申し上げられません。文字通りまだまだ修行中の身ですので。

 

 何にせよ気功を通じて、私の世界観が大きく変容してしてしまったことは確かなようです。良い方なのか悪い方なのかはわかりませんが。この記事が多少なりとも皆様の今後の気功鍛錬の参考になれば、嬉しく思います(笑)。

at 19:48, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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インフルエンザになりました。

JUGEMテーマ:心、体、そして魂。

 

先週、今はやりのインフルエンザというものになりました。

 

と申しますか、インフルエンザというものに掛かったのも、初めてかも知れないですね。風邪くらいは数年に一度掛かったりしますが、今回のはちょっと様子が違ったようです。私は鳥取へ帰った時、いつも有志の方々と夕食会を催すのですが、どうやらその内のお一人が保菌者だった模様で(もっとも直接のきっかけは、その翌日伺ったクライアントさんのご自宅だったと思いますけれども。お仏壇を見た瞬間からこりゃマズイところに来たなと思いましたからね)。夕食会参加者のうち私を含めて3名がダウンし、症状も似ていた(全身がやたらと痛くなる)ことから、あーこれがインフルエンザって奴ねと納得行った次第。予防接種?そんなものしたことありません。痛いの大嫌いなんですよ。

 

お二人は病院へ担ぎ込まれてタミフルその他を処方された模様ですが、私は結局病院へ行かずに、自力で治しました。因みに、家族も罹患しておりません。

 

そのやり方と言えば至極単純で、ともかく体を温めまくること。特に腎臓周辺ですね。もしあなたが、丹田から発した気で全身をコーティングするメソッド(大周天って奴ですね)をご存知であれば、完璧です。もっとも、全身にウイルスが広がっていく以上の速度でコーティングしないといけませんので、そこら辺は熟練が要りますが。あとは温かい食べ物と飲み物。私が口に入れたのは、お粥と漬物だけでした(但し、塩分多目に。ここもポイントです)。

 

結局2日間寝込みましたが、3日目には全快してましたね。

 

まあ今回の騒動で良く判ったのは、インフルエンザで問題になるのは、ウイルスそのものではなさそうだということですね。実際嫁は大丈夫でしたし。要はその引き金を引く環境因子が問題だということですね。内的なものも含めてですけれども。ともかくまあ、寝てるのが一番ってことですね。

 

何はともあれ、皆様もお気をつけ下さい。

at 11:09, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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今、『チベットの死者の書』を読み直す。

JUGEMテーマ:心、体、そして魂。

 

今、私の祖母が亡くなりかけています。

 

今年96歳になる私の祖母は、数年前から、介護が必要な状態になっていました。最初は自宅で介護をしていたのですが、ご多分に洩れず状況が悪化してきたので、昨年より琴浦町内の特別養護老人施設に移りました。

 

そこで、脳に水がたまってきたとかで手術を行ったのが三ヶ月前、そのまま昏睡状態となり、現在に至ります。それだったら最初から手術して何の意味があったんだという話ですが、実際こういうケースも多いんでしょうね。

 

先日出張で鳥取へ帰った際に、母より、どうも最近状況が更に良くない、と言われたので、もう長くないかもな、と思って、早目に見舞いに行くことにしました。

 

病室へ入って祖母を見ると、手足が異常に浮腫んでいます。典型的な腎臓障害ですね。声を掛けても返答しません。文字通り、肩で息をしている、といった状態です。でも、あまり悲しいという気持ちはしません。年が年ですからね。それにこの病室は冷暖房完備。ほぼ昏睡状態のこのままで逝くのであれば、それはそれで大往生と言えるのではないだろうか、と思いました。

 

思えば祖母のお陰で、仏教を始めとした東洋思想に深くコミットメントするようになったわけですから、祖母には感謝の言葉しかないな。そう思いながら、横たわる祖母を見ていました。

 

その時ふと、不思議なことに気付きました。

 

横たわっている祖母の体の上に、熱の塊のようなものがふわふわと浮いているのです。私は錯覚かと思ったのですが、その場所にはエアコンの吹き出し口があるので、本当だったらその辺りは、冷たい空気のはずです。しかしそれは温かい。そうこうしている内にまたいつものように私のおでこが、ガタガタと鳴動を始めました。私は、とても不思議な心持ちがしました。

 

家へ帰ると私は早速書斎へ行って、2冊の書物を手に取りました。それが、『原点版チベットの死者の書』(川崎信定訳、筑摩書房、1993年)と、『三万年の死の教え』(中沢新一著、角川文庫、1993年)です。

 

私がこの2冊を初めて手にしたのは、1997年でした。当時の私は、チベットへ赴いてチベット仏教を学ぼうかどうしようかと思いあぐねていた時期でした。結局それを断念させてくれたのが、当の中沢先生だったわけですが(笑)。先生は、チベットへ行っても今となっては仏教の真髄を学ぶのはかなり難しい、行くのであればカリフォルニアの方が良い、と言われました。その後私は結局チベットへもカリフォルニアへも行かず、そのチベットといわば敵対関係にある中国の気功法を学ぶことになったというのは、非常に皮肉なものだな、と今は思いますが、1997年というのはその気功法を学び始める前の時期でした。

 

あれからかれこれ20年が経ち、私自身の気功に関する知識と経験も、そこそこ充実してきたように思います。そんな中間もなく迎えるであろう祖母の死。そのような状況でこの2冊を読み返すと、非常に考えさせられました。

 

初めての方には、中沢先生の本の方が取っ付きやすいと思います。しかし今の私は、この取っ付きやすさが問題かな、と思いましたね。というのはこの本の中では、死に関連する様々な現象が、非常に認識論的というか、哲学的に解釈されて語られているように思われるからです。最初にこの本を読んだ当時の私も、「心の本性(セム・ニー)」とか「イェシェ(裸の知性体)」といったテクニカル・タームを、そのように理解していましたけれども。

 

ところが、気功を通過した今の私には、これらの現象は、もっと現実に即した、即物的(とはそういうご経験のない方には全く思われないのでしょうけれども)なものなのではないか、と思われます。

 

ここではその個々の現象に関して細かく論じることは致しませんが、ただ一つ言えるのは、「心=魂」というものが肉体にオーバーラップして存在している状態が我々が認識している生の状態であって、当然その間は身体の様々な物理的限界によって、「心=魂」自体も様々な限界を受ける(と"思わせられる"=「無明」)のですが、死に向かって肉体が崩壊していくと、その「心=魂」はその限界から解き放たれる、つまり「心=魂」とは、一種の「場」のようなものなのではないか、ということです。

 

そう考えると、チベット仏教のポアですとか仙道の出神、幽体離脱といった様々な現象も、同じ現象として捉えられることになりますし、そして私が病室で知覚したのも、その一つかも知れない、ということになります。これを「イェシェ(裸の知性体)」という言葉で呼ぶのだとすれば、その方が今の私にとっては、無理なく受け入れられますね(因みに私が知覚したのは、『バルドゥ・トェ・ドル』(通称『チベットの死者の書』)に書いてあるような光ではなく、熱でしたが。この辺りは、私にはオーラと呼ばれるものが見えないけれども、それを熱感として知覚する、ということと関係があるのかも知れません)。

 

言うまでもなく、そのような修練を行っていない方にも必ず訪れる全く同じ現象が、死です。その時に慌てふためいて、何らかの生命現象がスタートする瞬間を目の当たりにするとそこにせっかく自由になった「心=魂」は吸い込まれてしまい、再びこの世に何らかの形で生を受けることになる、それが輪廻(Reincarnation)であり、そのスパイラルに陥らないことが解脱である、という風に考えると、今の私としては非常に腑に落ちるものがあります。実際そうでなければ理解できない様々な現象が、私の周りで始終起こっていますからね(因みにこれは、幽霊とも微妙に違うと思います。私は幽霊は冷気として知覚しますが、神聖と言われる場所や像、あるいは時々うちにいらっしゃる方々(笑)のそばで感じるものは文字通り真逆で、正に熱=陽気ですね。何が違うのかと言えば、前者の場合は、突然訪れた死=心身の分離を受け入れられず彷徨っている状態、そして後者の場合は、それを特殊なテクニックによって意図的に行った状態です。これも気功=仙道の理論通りです)。

 

だとすれば誰も避けることが出来ない死を待つ我々がなすべきことというのは、スムーズな「心=魂」と身体との分離がもたらされるように、「心=魂」を強化すること、ということになりそうです。その「心を強化する」というのも、精神論ではありません。陽気を丹田から発してそれを「心=魂」とマージさせ、身体からも独立した状態を獲得すること。してみると練功をすることで全身が物凄く熱くなるというのは、リラクゼーションによって毛細血管が広がって体温が上昇するといった生理学的な理由だけではないのかな、とも思いますね。

 

間もなくお盆。信仰心があろうがなかろうが、霊的な存在に対して祈りを捧げる時期です。そしてうちの場合は、間もなく迎えるであろう祖母の死。それどころか米朝核戦争で、私を含めた日本が明日にでも消滅するかも知れない。でも祖母の様子を目の当たりにして、死んでもああなるだけか、と思ったら、あまり死に対して悲壮感はないですね。何というか、フェイズが一個ずれるだけなんだな、みたいな。その意味でも祖母は、最後の最後でも重要なことを私に教えてくれたのかも知れないな、と思います。

 

何はともあれ、今はもう一度この2冊を読み直して、来るべきものに対して十分な備えをしておこう、と考えています。

at 15:17, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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昨日、音楽療法と、お年寄り向けの簡易気功法の講習をして参りました。

JUGEMテーマ:心、体、そして魂。

 

昨日、埼玉県春日部市にございます家族の家ひまわり北春日部にて、音楽療法と、お年寄り向けの簡易気功法の講習をして参りました。

 

地域格差の問題はこのブログでも何回か触れているところですが、たった一つだけ地方も都市部も関係ないと思われる問題がございます。それが、超高齢化が引き起こす諸々の問題です。

 

特に、認知症に関する問題。これは身近にそのような方がいらっしゃらなければご想像頂けないかも知れませんが、その方だけではなくその方がいらっしゃるご家庭そのものも崩壊させてしまうほどの切実な問題だと思います。問題というより、正に脅威ですね。

 

それに対して国に対策を働きかけるみたいな運動は各地でございますが、私はそれに関しては非常に懐疑的ですね。もちろん無駄だとは申しません。問題なのは、そうやって働きかけて、各種議員が重い腰を上げて、法整備が行われて、ようやくその恩恵を受けることになる。そこに至るまでに一体どれだけ時間がかかるのか、ということですね。その間にも事態はどんどんと進行していくのです。しかも残念ながら、あまり良い方向ではない。

 

では私達はどうすれば良いのか?やはり現実的には、我々なりに対策を立てるしかないのでしょうね。

 

東洋医学にも造詣が深い山崎施設長ともお話したのですが、東洋医学には認知症に関する記述はないと。確かに言われてみればそうですね、気付かなかった。だとすればますます、我々なりに模索をするしかない。ガイドがないわけですからね。認知症に効く薬というのも現実的には聞いたことがない。そもそも、既に発症した認知症に対して効果がある薬というものはあり得るのでしょうか?それは老化を止めるくらいに無茶なことのように思われますが・・・。

 

そこで今回私がお話したのは、二つのアプローチです。一つは体からのアプローチ。それは、転倒予防に関してです。

 

恐らくこれは、悪い着眼点ではないのではないかな、と思います。転倒して足腰が弱くなった、立ち上がるのが億劫になったので在宅が多くなった、テレビもつまらないので昼寝をするようになった、だんだん起きているのか寝ているのかわからなくなった、その内記憶が飛ぶようになった、私が多く聞くのは、大体このパターンです。ですからそもそも、転倒しない体を作る必要がある。

 

その鍵を握るのは、筋力を鍛えるとかではなく、重心の位置ですね。重心が胸の辺りにあると、転倒する確率が当然高くなります。ハンマーを柄の方を下にして立てるのと同じですからね。これを逆転しなければならない。ここで使えるのは東洋医学ではなく、むしろ東洋武術の発想です。これだけでも、不測の事態をかなりの程度防ぐことが出来ると思います。

 

そして、もう一つのアプローチ。これは心ですね。残念ながら足腰が弱くなったとしても、在宅で何か出来ることを模索されることが重要だと思います。その意味では、趣味がある方、このような方はメンタル的にタフです。実際私の見たところもそうですね。逆に、定年まで家と仕事場を往復していただけという方で、定年になった直後に認知症を発症したというケースも良く聞きます。これは知人から聞いた実話ですが、3月31日付けで定年になった校長先生が4月1日になっても校長室に入って来る。自分は校長だ、仕事をして何が悪いんだと言い張るので、最終的にセキュリティを呼ばざるを得なかったそうです。悲しいことではありますが、このようなケースは多いのではないかと想像致します。ですから、定年になったから好きだった趣味に自由に没頭してやるぞ!くらいの意気込みのある方の方が、色々な意味で強いと思います。

 

あとは、周りの方のサポート。これはケース・バイ・ケースなので何とも言えないのですが、私であればその方の興味を引き出すように会話を誘導していきますね。上記の趣味とも関係することですけれども。

 

実際昨日もそうでした。昔の童謡等をピアノで演奏していたのですが、参加していらっしゃるお年寄りの中で、私と一緒にハーモニカを吹かれる方がいらっしゃる。その演奏がリズム・ハーモニー・メロディーとも完璧なので、この方は恐らく只者ではない、と思いました。終演後施設長さんと一緒にそのHさんのお部屋をお尋ねしたのですが、聞くところによると子供の頃から音楽が好きで、何と、最も好きな民謡で東京大会はおろか全国大会に何度も出て、数々の賞を総なめにしていたそうです。あまりにも才能がずば抜けていたために、逆に疎まれて教室から破門されたことも何度もあるとか。どっかで聞いたような話ですが(笑)。書道もやるし、詩も書く、絵も書く、落語までやる、部屋中にはご自分で作られた作品が所狭しと貼られている、要するに完璧なアーティストなのです。今は左手が不自由なのでギターや尺八や三味線は演奏出来なくなったけれども(てか、それも凄いですね)、ハーモニカなら片手で出来るし、今でも歌の練習には余念がないとおっしゃいます。そのような詳しいことは施設長さんも初めて聞かれたようで、びっくりされていました。アートに関心がなければ、壁に貼られているそれらの作品も単なる落書きですからね。そうやって話されるHさんの顔は、本当に生き生きとしていました。また是非来て下さい、と有難いお言葉を頂いて、その部屋を後にしました。

 

私の考える音楽療法や気功というのは、こういうことなのです。そんなに大それたことをしているわけではなく、その方のやる気を引き出すこと。それに成功すれば、後は独りでに自体は好転していきます。そういうことです。

 

6月29日に総務省が、日本の総人口の中で65歳以上の方の人口が4分の1を超えたと発表しました。多くの方が指摘している通り、歴史上初めての事態が次から次へと起こるのは避けられません。それとどう向き合うか?答えは容易には得られそうにありませんが、まずは身近な予防策を模索するしかないのかも知れませんね。

at 11:04, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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クライアントさんから、面白いグッズを送って頂きました。

JUGEMテーマ:心、体、そして魂。

 

先だって、いつも連絡を下さる東京のクライアントさんより、面白いグッズをお送り頂きました。ご自分では効果があまり良く判らないので、是非鑑定をお願いします、とのことでした。

 

3つほどお送り頂いたのですが、一つはかのニコラ・テスラ関係のグッズみたいです。彼も交流電流やラジオの発明以外に、かなりファンキーな研究を残していらっしゃいますからね。マッド・サイエンティストとも目されているようですが。彼の伝記には非常に惹かれるものがあります。

 

同封の解説書には、1ページ目より色々と書いてあります。「生命エネルギー」、「自己浄化」、「ポジティブな感情」、・・・云々。ここら辺が既に、拒絶反応を示す人は示してしまうマイルストーンとなっちゃうんでしょうねー。そもそも、生命エネルギーとは何か、自己を浄化するとはどういうことか、ポジティブな感情とは何か。それらの十分な定義も無しにいきなりそういうことを語られた瞬間に、そりゃ宗教かスピ系でしょう、と言われても仕方が無いのかも知れないですね。現代人はとかく疑い深いですから。無理もありませんが。

 

ただやはり私のような仕事をしていると、一概にこれらを荒唐無稽と一蹴するのも憚られる現象もあることはあるのは事実です。私だって最初気なんてウソだと思ってましたから。皆さんも、自分は気功家だと言うようなおかしな人間は信用されない方が身のためです(笑)。

 

試しに、マウスの使い過ぎで肩が痛かったのでそれをかざしてみると、何だか軽くなったような気がしますね。この図柄に意味があるのか、何か特殊な物質が埋め込まれているのか、それは判りませんが。まあちょっとした病気程度でしたら私の場合点穴で処理出来るのですが、その手法をご存じない方であればこういうグッズは、お持ちであっても良いかも知れませんね。

 

というわけで、もう少しリサーチしてみます。因みに効果が確認できた暁には、このブログの横にそれ系のアフィが出たらそれですので、是非クリックして私にファンディングして下さい(笑)。

at 16:15, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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タオイスト的ミニマリストのすすめ


私が都内でコンテンポラリーダンスのための音楽を作っていたある日、ダンサーの女の子が打ち合わせのためにうちへやってくることになりました。

その彼女はうちへ入るなり、こう言いました。「私も東京に長いこと住んでますけれども、都内でこんな生活してる人がいるとは想像もしてませんでした〜」。

その時は、そうかなあ、そんなにおかしいかなあと軽く思った程度だったのですが、確かに部屋の中にあるのはシンセサイザーとCDと野菜だけというのは、いわゆる普通の方にとっては衝撃的だったかも知れませんね。

今日たまたまネットを見ていて下のような記事を目にしたものですから、僕も実は(そしてこの「ミニマリスト」という言葉が生まれるずっと以前から!)そうだったかも知れないな、と思って先のエピソードをご紹介した次第。

脱帽! ミニマリストの生活はこんなに合理的

本文にもありますけれども、この楽しさと充実感は、やっていない方には想像出来ないことかも知れませんね。例えば食事。僕はここ20年近く、朝ご飯は食べません。昼も米と味噌汁と漬物だけです。さすがに結婚してからはそうではありませんが、以前は夕食もこの三種類だけでした。永平寺の坊さんの方が間違いなくいいモン喰ってるみたいな(笑)。別にそれは東洋医学やってるからとかマクロビの影響を受けたからとかではなく、その方が断然体が軽いからです。内臓の動きもパーフェクト。そのためかこの20年は、全く病気にかかったことはありません(風邪だけですね)。

そういう意味ではこのミニマリストという概念は、往年のタオイストとかなりリンクするところがあるのではないか、と思いますね。

面白いなと思ったのは、「マルチルーム」という発想です。その意味では僕も似たようなことをやっていて、それは言わば「マルチUSB」とか「マルチHDD」、あるいは「マルチPC」ですね。ともかく記憶媒体は空っぽにしておく。データがたまってきたらBDREに移す。ともかく重要なのは、スカスカであること。その方が使い勝手があります。

要するに情報というものは、あれば良いってもんじゃないということだと思います。情報があればあるほどその処理が出来なくなりますからね。逆に情報を極限まで減らせば、その情報をどう処理すれば良いかが、文字通り「見えて」くる。情報に振り回されるのではなく、その情報を「自分は」どう使えば良いかが判ってくる。自分を見失っている状態というのは、情報に翻弄されている状態のことです。それに気付かなければいくら薬飲んだって無駄ですね。やはり人間は人間ですから、その原理って古今東西あまり変わっていないんじゃないか、と思います。

というわけで今日もまた、僕はミニマリスト的生活を楽しんでいます。BGMはSteve Reich。当然でしょみたいな(笑)。

at 15:46, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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久々に、気功のお話です。


ここのところ記事が音楽関係ばっかりで、気功の業務ちゃんとやってんですか?という声もチラホラ聞こえたりしますので、ここらで一つ久々に、気功のお話をば(音楽関係と言っても、そうとは限りません。それも実は、きちんと気功のメソッドに則ってやっています。気功というよりはこうなると仙道ですけれどもね。なかなか効果があります。斉天大聖は特にお勧め。機会があったらお話致します)。

うちに来られるクライアントさんから、時々ちょっとしたご不満を頂きます。曰く、「確かに中原さんと一緒に一指禅功をやっていると全身が熱くなりますけれども、それだけなので、ちょっとがっかりですね」と。

ところが私が逆にお尋ねしたいのは、それが重要なんです。それ以上何をお求めなんですか?とこういうことです。

全身が熱くなるというのは、次のような効果があります。それは体温が上昇したということを意味するわけですが、このように体温を意識を使って人工的に上昇させる(そんなことは不可能だというのが西洋医学の見解なのですけれども)ことで自己免疫系=自然治癒力の向上を図る、これが健康の維持管理に用いる気功法の基本的なプロセスです。体温が上昇することで免疫機能の向上を図ることに関しましては、ググって頂ければ山のように情報を得ることが出来ます(こんな感じですかね)。それで十分に、日常的な用は足せます。

ところが、そのようにご不満をお持ちの方によくよくお話を伺ってみると、こういうことらしいです。つまり、結構色々な本を読まれていて(但し、言うまでもなくスピ系)、その本の記述をまんま鵜呑みにしていらっしゃるんですね。気功をすると小周天という状態になるはずだ、そしてそれが起こると頭の中に火花が炸裂して超人になるのだ、みたいな。ですから私が経絡をチェックする限り小周天(奇経八脈である任脈・督脈に気が通る状態)を通過して大周天(全身の十二本の経絡に気が通る状態)にすでに移行していらっしゃるような方でも、そのようなヴィヴィッドな経験を欠いているものですから、どうしても欲求不満になる。

これは要するに、先入観の問題ですね。大阪から東京へ行くのには、必ず名古屋を通過するはずだ、そうあの本には書いてあった、そうでなければ嘘だ、みたいな。でも別に東京へ行くのに必ず新幹線でなければならないということはないわけでして、飛行機で伊丹・羽田経由で直接東京へ入るやり方もあれば、高速バスで中央道経由で、というやり方もありますしね(あとは、流派の問題ですね。一指禅功では小周天がどうのこうのと、あまり言いません。前者は仏教系で、後者は道教系ですから)。

換言すれば、手段と目的を間違えていらっしゃる、とこういうことですね。目的とすべきは、体調管理ですとか潜在能力の開発なのであって、頭の中で火花を炸裂させることではないはずなのですけれども、そっちの方が凄そうに聞こえるので、どうしても興味がそっちに向いてしまう。もし後者をお望みであれば、私のところではなく、インドのゴアかなんかでLSDをキメながらプログレッシヴ・トランスを聴いて頂ければ結構かと思うのですが(笑)。

というわけで私のところへお出でになる皆様には、あらかじめそのような先入観をひとまず横において来られることをお勧め致します。気功というものはサイケデリックなビジョンをもてあそんで現実逃避するツールではなく、もっと実用的なものです。練習することで病気にかからなくなったり、通常の数倍の力を出したり、他人の未来を読み取ったりといったようなことは、そんなに難しくないわけなのですけれども、それには神秘体験などは必要ではありません(もっともお二人ほど、私と一緒に練功していたら頭蓋骨に物凄い衝撃がかかったので怖くなって止めた、とおっしゃる方がいらっしゃいますけれどもね。因みにお二人とは相変わらずお付き合いは続いておりますけれども。やはり個人差ってことでしょうね)。

個人的には、違った形での不可解な現象なら興味ありますけれどもね。そのキーになるのは、先ほどの熱です。昔からの気功=仙道の理論では、熱というのは意識と関係があると言われていて(出神とかそういう感じですね)、それと関係があるかのような現象も結構我々の周りでは多発しておりますのでね。そういうのが古来『幽霊』とか言われるものとどう係わり合いがあるのか、そこら辺が興味深いかなと。いやインドネシア、凄過ぎる。それについてもまた、機会があればお話致します。

<追記>
神秘体験なら、こちらがよろしいんじゃないですかね?私も欲しいです(笑)。

LSD服用時と同様の「サイケデリック幻覚」が見られるメガネ

at 11:45, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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『未知との遭遇』、しちゃいました♪


ついに念願の、『未知との遭遇』しちゃいました。

昨日いつものように教室で、動功から小周天を経過して静功に入ったところ、中庭の辺りで人が歩く足音が聞こえます。変だな、中庭には人はいないから、恐らく階下の通路を誰かが歩いているんだろう、それにしても建物の構造の関係かどうか知らないけれども、ずいぶん間近に聞こえるもんだな、とぼんやり考えていました。

次は建物の中の方で、ぱたんぱたんと音がし始めました。私は今度は、掃除のおばちゃんが来たんだな、と考えました。しかしいつもの掃除のおばちゃんですと、扉を開けたり閉めたりする時に、もっと大きな音を立てます。でも今回は、そうではありません。私は、ふむ、おばちゃん何か思うところがあって、大人しくなったんだな、と呑気にも考えました。

そして練習が終わると、いつものようにダベリングです。今回は、この僻地鳥取での婚活パーティを巡るシビアな現実と、渓流マスのつかみ獲りで群がるキッズを押しのけて見事80匹をゲットしたクマのような奥様がテーマでした(笑)。ひとしきり爆笑しながらそんな話をしていると、誰とはなしに、「・・・今日はすごかったよね」、と言い出しました。

どうやら部屋の周辺で、何やら奇妙なことが起こっている、というのは、ほぼ全員が意識されていたみたいです(判らなかったとおっしゃる奥様は、かなりくやしがってらっしゃいましたけれども。因みにこの方が、件の奥様です(笑))。参加者の一人にかなりいわゆる霊感の強い方がいらっしゃるのですが、彼女によると、来ていたのは一人や二人ではなかったと。その他の方は、声まで聞こえていたらしいです(これは残念ながら、私にはわかりませんでしたが)。しかも彼女は静功中に、ずっといわゆる金縛りにあっていたと。彼氏は、私が終了の合図を出しても彼女が動かないので、不思議に思っていたそうです。

ここ最近は検証のために、彼のアプリを使って、私ともう一人の方を選んで静功中の脳波を記録しているのですが、今回は偶然にも、彼女が脳波計をつけていました。霊感の強い彼女の脳が、静功中にどういう脳波を描くのか、しかもその時霊を知覚していて、なおかつ金縛りにあっていたとすれば、その時の脳波はどうなっていたのか。これは非常に興味深いですね。少なくとも私はそのような時の脳波の検出に成功したという例は、古今東西聞いたことがないですから、これは貴重なケースかも知れないですね。

ゆくゆくはこのプロセスをバイオ・フィードバック状に利用して、人工的にそのような霊を知覚する意識状態を作ったり、あるいは彼らとコミュニケートする方法を作れないか、考えていきたいと思っています。彼らには、色々とインタビューしたいことがあるのでね。それに成功したら、またご報告します(笑)。



<追記>
ただ今関係者よりクレームが付きました。80匹ではなく50匹だそうです。お詫びして訂正致します。なお奥様の前に「繊細な」を付けろ、という案件に関しましては、前向きに検討させて頂きます。

at 12:11, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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もっと、怒っていいんです。


ここ郷里鳥取県に帰ってきて気功の施術・指導をするようになってから早4年が経ちましたが、多くのクライアントさんと出会ってきて、ずっと抱いている一つの疑問があります。県民性なのか田舎固有の特性なのかはわかりませんが。



それは、皆さんそんな状況で、なんで怒んないのかな〜、ということです。



怒り自体は、潜在的に皆さんお持ちなんですね。ないことはない。人間ですから。上司が嫌いだ、同僚が嫌いだ、親が嫌いだ、うちの地区が嫌いだ(笑)。ただそれを皆さんおくびにも出さず、より正確には「出さないようにして」、我慢我慢の連続で、毎日を送っていらっしゃる。文字通り、『臭いものには蓋』というやつですね。



しかし残念ながら、臭いものは蓋をしたって臭い。腐敗しているわけですから。その臭さに不快な思いをするのであれば、そんなものは除去した方が良いのですが、それが出来ない。いやいや、上司だから、同僚だから、親だから、うちの地区だから、そんなことは出来ない。出来るわけがない。ともかく我慢するしかない。挙句の果てそんな時スピ系の本を読んだら、「怒り」は自分のオーラを汚すので持ってはいけない、とか書いてある。それを真に受けて二重三重に、自分の感情を抑圧しようとする。



私はこれで精神的・肉体的に変調を来たさない方がおかしい、と思いますね。



そういう方がいわゆる「癒し」を求めてアロマとかヨガとか気功(笑)に挑戦されても、基本的に効果はないだろう、というのが私の意見です。なぜならそれって、対症療法ですからね。部屋に大量の生ごみを放置したままでせっせと芳香剤を撒きまくるようなものです。効かなくなったら、元に戻ります。酒やドラッグと全く同じ。ではどうすれば良いのか?



本当につらいのを解消しようと思えば、まずご自分のその潜在的な怒りを自覚した方が良い、と思いますね。それと真摯に向き合った方が良い。



ぶっちゃけ、もっと怒っていいんです。それはコミュニケーションですからね。意思疎通の一環。それを表現するからこそ、相手にあなたが何を考えているか、どのようなスタンスに立っているかが、初めて伝わります。それを恐れるべきではない、と私は思います。自分に正直になるとは、そういうことです(そこに目を向けないで、「今『自分に帰る』メディテーションを練習してます」とか言われると、非常に不思議に思ってしまうのですけれども・・・)。



実際気功では、怒りは持ってはいけない、という発想はしません。「怒り」は「肝気」というのですが、「肝気」は陽の属性を持つので、それは放出されるべきだ、と考えます。それを溜め込むとバランスが崩れ、肝経がやられる(こういう方の場合胸の「章門」という経穴に触れると、皆さん例外なく鋭い痛みを感じられます。典型的なストレス反応ですね。経絡は正直なのです)。



要はコントロール、使い方の問題ですね。



不満は、エネルギーです。それを自分に向けない方が良い、と思いますよ。つらいですし、第一もったいないですからね。それを建設的な方向に向けた方が良いと思いますし、そのための方法を模索した方が、より快適に毎日を過ごせると思います。それが本当の気功での対処の仕方ですし、そうやってオープンになる方が、行政にありがちな口先だけのあいさつ運動(笑)とかするよりは、よっぽど社会を明るくすることになる、と思いますけれどもね。

at 12:16, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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気功法の裏技集その3〜『調心』について(上):瞑想とは何でしょうか

 
今回はいよいよ核心、『調心』について、論を進めたいと思います。一般的な東洋思想の書物によればこのカテゴリーには精神集中瞑想の二つがあり、普通前者から解説を進めるのですが、ここではあえて逆に、抽象度の高い後者から始めたいと思います。

さて『調心』について、「核心」と申し上げたのは、他でもありません。これが一番難しく感じられるからですね。何となれば、効果が見えにくいからです。『調体』は型ですから、わかりやすい。『調息』も呼吸ですので、まだヴィジブルです。しかし言うまでもなく、心はそうではない。

従って、良かれと思ってやっていることが、実は逆効果だったりということが、どうしても生じてきます。いわゆる「魔境」あるいは「偏差」というものですね。現代的にいえば、妄想が生じやすい。しかもそれが妄想なのかどうなのかがこれまた見えないものですから、やっかいです。

ですから、『調体』、『調息』に関してはご自分で独習ということもある程度可能なのですが、こと『調心』に関しては、熟達した方に、リアルタイムで指導を受けた方が良いかも知れません。

しかし、この「熟達」というのも、これまた見えにくい要素でもあり、それを見誤ると、これまた問題を生じる。

具体的に考えられる問題としては、以下のようなケースが考えられると思います。例えば、ひどいストレス状態に長期間置かれて、心身のバランスを崩しがちになった。明らかに自分でもヤバイ、と思ったので、対策を講じることにした。しかし心療内科だとか精神科に行くのは、勇気がいる。そこで昔からストレスにはヨガや気功が良いということなので、それらを試すことにした。

ただし、問題なのはその次です。こうして教室を訪ねて、気持ちを落ち着かせるのに最適といわれるメディテーションのやり方を、教えてもらった。なるほど、やっているうちに何やら光のようなものが見える。これは効果がありそうだ、ということでそれを続けているうちに、電車の中にいる人の考えていることが手に取るようにわかるようになってきた。しまいにはそれが声となって聞こえてくるようになった!これはマズイ、練習が足りないのではないか?と思って、そのトレーニングをさらに一生懸命にやるようになった。そうしたら落ち着くどころか、しまいには、他人には見えない人の姿まで見えるようになった・・・。これは特殊なケースではなく、割と起こり得ることで、私自身そういう方のご相談を、よく受けます。それではこのケースの、どこに問題があるのでしょうか?

考えられるのは、この教えてもらったメディテーション(meditation)というのが、実は、コンセントレーション(concentration)だった、ということです。

このコンセントレーション/メディテーションの違いは、実用上、とても重要だと思います。前者は、「精神集中」、後者は「瞑想」と訳されます。昔の天台宗などのオーソドックスな流派ですと、「止観」という言い方をして、私はこの言葉の方がイメージがつかみやすいので好きなのですが、実は、両者を混同して理解していらっしゃる方が、極めて多いのですね。残念ながら教室を開いているような方の中にも、そういう方が多い。そういう方はご自分が師匠より教えてもらった指導内容を、そのままそのお弟子さんに伝えようとしている場合が多いのですが、人間は千差万別で、教えられた通りのことがそのままその他の人に適応可能かどうかは、十分な検証が必要です。そのプロセスを案外失念されている方が多いのですが、その最たるケースが、この両者の混同だと思います。

つまりここでの問題は、こういうことです。この方の場合、あまりにも鋭敏な感覚をされているがために、他人の行動あるいは言動が自分に与える影響に過剰に敏感になってしまい、それがストレスとなって現れていたわけです。そのような方にコンセントレーションをお教えすると、どうなるでしょうか?当然その方はますます感覚が研ぎ澄まされてしまい、それに伴ってそのような過剰反応が、ますますひどくなる可能性があります。それが先に挙げた例のような状況を引き起こすわけです。それは、ラジオをあるチャンネルに合わせたら気に入らない音楽が流れてきたので、何とかしようとしてボリュームを上げるようなものです。ますますそれがあなたを煩わせることは、自明の理です。

このような場合の一番簡単な対処法は言うまでもなく、チューニングを変えることです。これが、メディテーションのわかりやすい例だと思います。

先ほど私は、「精神集中/瞑想」という言葉よりも、「止観」の方がイメージがつかみやすい、と申し上げましたが、それはそういう意味です。「止(=精神集中)」では、心を一点に集中させて動かさないトレーニングをします。しかし問題は、そうやって培われた集中力が、良くない方向に向かった時ですね。見たくもないのに見えてしまう、聞きたくもないのに聞こえてしまう、それを遠ざけようとすればするほど、余計に見えたり聞こえたりしてしまう、みたいな。その状態が長いこと続けば、精神に異常をきたしてしまいます。この方に必要なのは、「観(=瞑想)」の方です。

そのポイントは、ただ「観る」ことにあります。「止」の反対ですね。かといってそれは、単純に「集中しない」ということではありません。そうではなく、他のチューニングを試すこと、そのために、チューナーのノブを自在に回すことですね。そうやって、他にもたくさんのチャンネルがあるということが理解できていて、このチャンネルでなくても他のチャンネル聴きゃいいや、という選択肢が取れれば、驚いてパニックになったりすることはありません(余談ですが、このことはいわゆる心霊現象でも同じです。怖がったり逃げようとすれば、状況は悪化します。なぜか?そんなことをしても、チューニングが相変わらずそちらに向いているのに、変わりはないからですね)。

ですから、コンセントレーション/メディテーションも、TPO、あるいはその方の特性に合わせた柔軟な指導が必要になります。カスタマイズが必要なわけです。常時ぽーっとしてしまって、文字通り集中力がない、とおっしゃる方には、精神集中のトレーニングは有効だと思います。しかしその逆で、やたらと他人の行動が気にかかる、みたいな方には、精神集中のトレーニングはお勧めできないですね。状況が悪化する可能性がありますから。ただし、そういう特殊知覚能力を身につけたいのだ、という方には有効でしょうが(余談ですが、NLP(神経言語プログラミング)の提唱者の一人リチャード・バンドラーは、その著書『神経言語プログラミング』の中で、過去に受けたトラウマの状況を細部にいたるまで克明に記憶している人が、自分は記憶力がないといって記憶力増強のトレーニングを受けたりするのだから、人間とは奇妙なものだ、と述べているくだりがありますが、正にその通りだと思いますね。実際私がコンセントレーションとメディテーションの区別について考える契機となったのは、この箇所を読んだからでした)。

しかしながらあまり実地の指導の重要性を言い過ぎると、このシリーズの意味がなくなるわけでして(笑)、この場ではある程度独習せざるを得ない皆様の、便宜を図る必要がある。精神集中に関しては、様々な本に様々な有効なやり方が書かれていますのでそちらをご参照いただくとして、それでは「観=瞑想」のやり方としてどのような方法が有効なのか、と問われれば、私のこれまでの経験から言わせていただくと、最も有効なのは、「雑念を利用すること」だと思います。これが最もパワフルです。

ここでもう一つ述べさせていただきますと、「無念無想」という言葉があって、その言葉通り、瞑想中は何も考えてはいけない、雑念は追い払うべきものだ、と考えていらっしゃる方が多いのですが、それは誤解です。実際それは湧き水に蓋をして、その流れを止めようとするもので、それは脳が働いている限り、不可能でもあります。むしろ今までの論点から申し上げれば、重要なのは、それをただ何となく眺め続けることです。映画のように。これが「観法」のテクニックの一つです。

そんなことをして何の効果があるのか?それには、二つ答えがあると思います。一つは、脳のデフラグ。「デフラグ」とは、皆さんがお使いのコンピュータでやるところのメンテナンスの一つで、いわばハードディスク内のファイルの整理整頓ですね。結果として、ハードディスクの読み込み速度を向上させることが出来るわけですが、私は観法の効果がまさにこれと同じだと思います。雑念を眺めるということは、メモリ上にハードディスク内の情報を一旦取り出した上で、再配置しているのと同じです。畢竟、もしその情報が欲しいと思った時には、それをしていない状態に比べて、格段のスピードでそれを取り出すことが出来るわけです。「頭が柔らかい」とは、こういう状態だと思います。

そしてもう一つの効果。それは、感情と行動の分離です。先ほど申し上げました通り、雑念を眺めるのは、映画を眺めるのと同じです。映画を見てあなたは、笑ったり怒ったり泣いたりします。しかし映画は映画。終わればそれが、単なる映像がもたらす幻想だったと知ります。そのようなトレーニングを続けると、一体どうなるか。しまいには、現実生活自体が映画のように見えてきます。それに対して、極端な感情の起伏を抱いたりすることは、なくなります。極端な話、いかなる状況においても(もちろんその程度がいかほどかによって、その人の「修行」がどの程度進んでいるかを判定することが出来るのかも知れませんが)、心が全く動かなくなります。これを「不動心」と呼んだり、あるいは「悟り」と呼んでも、私は全く問題ないと思います。だからといって、全く感情のないロボットのようになるわけではない。逆に、幻想なんだからむしろ楽しんじゃえ、といったように、それをポジティヴに利用できるようになります(軽いノリで書いていますけれども、これが正に、大乗仏教と小乗仏教との考え方の違いにもなります)。

別の例を挙げましょう。「今日言いたいことは明日言え」という言い方があります。この言葉から連想できることといえば、普通の人は今日言いたいことを今日言ってしまいがちだ、ということですね。つまりこの人は、感情と行動が直結してしまっているわけです。そのようなパターンが問題を起こしがちであるということは、想像に難くない。では「明日言う」ということはどういうことか?一晩その感情を「寝かす」ことで、その人は激情的に行動するのとは違った、冷静な行動が取れます。それを日常生活全体に、広げるようなものです。

古来から多くの人が目指してきた心の状態とは、こういうことではないのでしょうか?

さて、今回はいきなり抽象度(難易度)の高い「観法」についてお話ししました。その具体的なやり方の一つとしては、リラックスした状態で、ご自分の雑念を眺め続けること。これだけです。TPOは問いません。これだけ故に、実感が沸きにくいかも知れないですね。これに関しては、個々人でお試しいただく他ありません。まあ騙されたと思って、一ヶ月程度お試しになって下さい。間違いなく、環境が激変します。しかし、後戻りは出来ませんので、覚悟してやってみて下さい。映画『マトリックス』のように。

次回は精神集中の方法について、実用的な観点から論じてみたいと思います。

at 12:30, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, 気功関連トピックス

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