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ある精神科の先生との対話(19)〜『マトリックス』と仏教思想

マトリックス 特別版
マトリックス 特別版
キアヌ・リーブス

 暑い日が続いておりますが、如何お過ごしでしょうか。毎日のNHKニュースで「福岡の最高気温は・・・」とよく引き合いに出されるのを聞くにつけ、さぞかし、と想像しております(笑)。くれぐれもご注意下さい。



 さて、練功の方も順調なご様子ですね。最近は気の"流れ"があまり感じられなくなっている、というご指摘ですが、正に僕も同じですよ(笑)。考えてみると、気の"流れ"が自覚できていたのは、僕の場合はかなり初期でしたね。いわゆる小周天と呼ばれる、督脈から任脈へと流れるルートがかなりヴィヴィッドに感じられて喜んでいたものですが、全部繋がったかな、と思った途端、その行く先がわからなくなってしまいました。

 おかしいな、と思って、気の流れに関する資料(いわゆる"子午流注"などを含めて)を調べてみると、その流れの順番や時間などが厳密に規定されているにもかかわらず、僕にはそのような自覚はないものですから、こりゃ練習のやり方が間違っているのかも知れないな、と思って、スランプになったりもしました(笑)。

 この点でも、以前から申し上げているように、僕の場合非常に助けになっているのは、施術そのものですね。人と相対することで、逆に、自分の持っている力量が、推測できるわけです。そうではなく、自分だけで練習を進めていった場合、自分の気の力と単なる妄想とをどうやって区別するのか(笑)。そういう意味で、このようなフィードバックが容易に確認できる、という点で、僕の場合気功を選んだのは、ベターな選択だったような気がします。

 また、そういう意味でも、先生のご自宅でのセッションは、とても示唆的でしたね。あんなのは横浜教室でも見たことないですから(笑)。そのような経験を積むことが、間接的に自分の力を推し量らせる要素となっているわけです。そのような機会を与えて下さった先生には、本当に感謝しております(笑)。

 ですから先生の場合も、そのような気の具体的な流れがおわかりにならなくなっても、一向に差し支えないと思います。もっと言えば、それは、意念などを使わなくても自動的に練習が進むレベルに到達された、ということですので、そのままどんどんお進みになって下さい。その内電車の中で、隣の人がいきなりトランスに入ったりする、みたいなことが頻発してきますよ(笑)。



 なるほど、F先生の状況、お察し致します。でも、予想通りでしたね。実際にお会いする前から、たぶんそういう方ではないかな、と想像していたので、やはりと言うべきか(笑)。

 何故ならば彼女の問題は、正に、多くの気功家がぶつかる問題だと思われるからです。

 たいていの気功関係の本には、「命功」と「性功」という言葉が出てきます。前者は体のトレーニング、後者は心のトレーニングのことで、両者は気功の練習の中では正に車の両輪であって、両方並行して収められなければならない、と書かれています。でも、こう書かれてみたところで、現実のイメージが沸かないので、単なる知識で終わってしまっている、というのが、大抵の気功に携わる人の現状だと思います。あるいは、良くてせいぜい、「文武両道」でしょうね。そんなことはわかりきったことだ、で済まされてしまうのではないかと(笑)。もう少し丁寧な、現実に即したわかりやすい説明が欲しいところだと思います。

 僕の考えでは、これに対する説明は、二つのレベルがある、と思われます。

 先ず初心者向け。気功のトレーニングを積めば、身体状況が改善されます。俗っぽく言えば、健康になれるわけですね。これは当然の結果です。何となれば、全身のリラックスを達成して諸組織の緊張を改善することで、その機能回復を図ることが可能だからです。しかし、その変化は、あくまで身体の内部に限定されます。ですから、その次に必要になってくるのは、身体外部からやってくる不測の事態にどうやって対処するか、という問題です。例えば、気功をやることで健康になったのに、交通事故に遭ってしまった、というのでは困るわけです。そこで、そのような不測の事態に対処するための直観力のようなものを養う必要があります。これが「性功」の部類に入ると思います。

 ですから、この点で申し上げれば、身体のトレーニングと心のトレーニングとは、厳密に分けて論ぜられるべきです。よく気功をすれば、心身共に健康になる、と言われたりしますが、これは、容易に悪質な誤解を招く、極めて危険な言い方だと思います。たとえそれが営業目的ではあっても(笑)。僕の考えでは、この両者は峻別されるべきです。気功をしたところで、身体の状況は改善されますが、心の状況までは改善されない、と仮定した方が、余計な混乱を招かないのでベターだ、と僕は思いますね。あるいは、百歩譲ってそれが可能であるとしても、その両者を共に達成できるか否かは、指導者の見識と力量に寄ると思います。一般的な指導者では、まず不可能です。以上が「命功」と「性功」に関する、初心者向けの説明ですね。

 そしてもう一つが、正にF先生のような、元々気功施術が出来る方向け、言わばプロフェッショナルな方向けの説明です(笑)。率直に申し上げてF先生の場合は、治してあげよう、という意識が強過ぎるのだと思います。それは彼女の場合は、クライアントさんの症状を何とかしてあげたい、という彼女の優しさから来ているので、それは大変に結構なことだとは思うのですが(そうではない連中が多過ぎますからね(笑))、あまりそのような気持ちが強過ぎると、施術する方の心身が持ちません。言い方は悪いですが、キリがないですからね。

 この辺は前回お会いした時にも皆さんで若干議論したのですが、正にそういうことだ、と思いますね。

 一般的に"邪気を受ける"という場合は、一つはこのような状況を指すと思います。もう一つの場合は、これもお話したことではありますが、僕があるガン患者の奥さんの隣に坐るとその方から冷たい風が吹いてくるのが感じられて、その直後風邪を引いてしまったことが二回あった、というケースについてお話したと思いますが、この場合は、この二回の失敗の後(笑)、その方のそばで練功する時には站椿功に切り替えることでその状況を克服したように(つまり単純に、こちらの方がより強い気を発生させるということですね)、何とかテクニカル的に処理することが出来るのですが、前者のようなメンタルな要素が作用する場合ですと、その対処は若干難しくなるように思われます。

 ここで重要になるのが、「性功」というわけです。一つ目の、単に直観力を鍛える、というものよりも、さらに重要な「性功」ですね。

 要するに、自由に切り替えられるだけの柔軟な心を持っているかどうか。重要なのはこのことです。つまり、Fさんの場合で申し上げれば、特定のクライアントさんに固着しないことですね。

 とは言ってもこれは、難しい人には難しい。そのためのトレーニングとは何が考えられるか。

 これは僕の経験ですが、僕の場合とても役に立ったのが、仏教の考え方、そして、それを徹頭徹尾理解させるために行われる、ゾクチェンの練習でした。

 以前申し上げたことですが、僕は赤陽先生のところに入門する数年前、中沢新一先生を直接中央大学に訪ねたことがあります。そして彼に、ゾクチェンの修行をしたいのだが、その場合はやはりチベットへ行くべきか、と尋ねたところ、即座に止めておけ、と言われました。その当時の暴走しがちだった僕はその言葉を聞いて、がっかりしたようなほっとしたような複雑な心境でしたが(笑)、しかしその時に忍び込んだ先生のゾクチェンに関する講義を聞いた後、しばらくこれを自分なりに実行してみた後でもう一度この問題を考えてみても無駄ではあるまい、と考えて、自宅に帰った後約三ヶ月、実行してみました。

 そしてある日僕は、御茶ノ水のミスター・ドーナツで、一人コーヒーを飲んでいました。店内は大学帰りの学生達でごった返しており、正に喧騒の中でした。その時、不思議なことに気づきました。僕はふと、誰もいない郷里大山の奥深い山道を歩いているような心境に襲われたのです。僕の心は、その山中のように、完全に静まり返っていました。この時僕は、このミスター・ドーナツの店内の喧騒と、大山の静寂とは、認識の対象という点で、実は全く同じものなのだ、と気がついたのです。その瞬間、僕の中で突然何かがガラガラと音を立てて崩れました。世界が突然シフトしたのです。

 この後僕は、他人の未来が見えるようになりました。

 ところが、事態はそれで丸くは収まりませんでした。つまり、当然のことではありますが、見えるのは他人の幸福な出来事だけではなく、不幸な出来事もです。周囲の人の受験や就職の失敗、離婚、全て当たりました。最悪の場合、僕の予言通りに、二人の方が亡くなり、一人の方が半身不随になりました。

 これは僕にとっては、ショック以外の何者でもありませんでした。この時、このように未来を読むだけでは駄目で、もし誰かがそのような不幸な道に陥ろうとしているのが見えるのだとすれば、それを止める方法を探さなくてはならない、僕はそう思ったのです。

 これが僕が気功の勉強を始めた、本当の原因です。

 実はこのことに関しては、直接赤陽先生とは話したことはないのですが、入門当初に、間接的に指摘されたことがあります。彼は言いました。「あんたは天目が開いている。今まで何をしてきたのかは聞かないが、それは極めて危険なパターンだ」と。

 このように、先生が言うところの「天目が開いた」状態に、最初は戸惑いを覚えたわけです。恐らくF先生の場合は、この時の僕のような状況だと思いますね。つまり、元々天目が開いているので、その人の運命だったり、考えていること、あるいは症状が、手に取るようにわかる、しかしその次に、そのような状況を何とかしてあげよう、と一生懸命になるものですから、結果的にご自分がダメージを受けてしまう。赤陽先生が言っていた「極めて危険なパターン」とは、このことだと思います。

 ところが、これはそのような経験を経てきた今だからこそ思うのですが、実はここにも、二つのレベルがあると思います。

 つまり、普通の人のレベルから一段シフトして、他人の状況がよりよくわかるような状況になったとしても、そこでとどまっては、返って危険なのです。それをさらに乗り越えなければならない。気功の練習中にどのような現象が現れるようになっても、決してそれに執着してはならない、と言われるのは、こういう意味です。このプロセスは、実は無限なのです。何事にも執着しないこと。これを端的に示す言葉が、仏教にはあります。つまり、「空性」です。空とは、物事には実体はない、という意味です。これを単に哲学として捕らえるのではなく、気功に携わるものは、それを"実践"していかなければなりません。仏教でいう空性は、どこまで行っても空性なのです。そのようなレベルに至ったとしても、さらにそれさえも空性であるとして、乗り越える必要があります。この心の動きを臨界点まで進めた時、心に一切の執着はなくなります。恐らくこれが、仏教で言う「悟り」です。そして私たちは、この心境で、物事に当たらなければならないのです。

 それは、単なる思弁ではなく、そうでなくては我々の場合、危険だからです。

 このことを、先生にお勧め頂いた『マトリックス』で論じてみたいと思います(笑)。主人公ネオは、モーフィアスに導かれて、今まで自分が現実だと思っていた世界が、実はコンピュータによって生み出された仮想世界だと知ります。そして彼の導きによって見せられた本当の世界の中では、人間は機械によって発電所にプラグで繋がれた状態で"栽培"されるのであり、その時にコンピュータのプログラムによって生み出される夢の方を人間は、現実だと認識しているのです。逆に、プラグを外された人間が生きる"本当の世界"では、機械にとって本質的に"アノマリー"な存在であるそのような生身の人間と機械との、熾烈な戦いが繰り広げられています。そしてネオは、その戦いに終止符を打つ"救世主"として人間世界に受け入れられる・・・。モーフィアスは言います。「現実としか思えない夢を見たことがあるか?その夢が覚めなかったとしたら、君はその夢と現実とを区別できるか?」。これは正に、仏教の言葉そのままです。

 ところが、実はここに困難があります。

 百歩譲って、ネオが、"アンダーソン"であった世界が仮想世界であったとして、今度はその世界から離脱した人間が機械と戦う世界が"現実"であるという保障は、一体どこにあるのでしょうか?それでさえもが夢であったとしたら?例えば第一作で、サイファーがモーフィアスに対して反乱を起こしますね。その時彼は、「モーフィアスは俺を自由にしたというが、この船の中の生活のどこが自由なんだ?俺はマトリックスに繋がれる方がましだ!」と叫びます。この言葉は、それ以降の物語の展開とは裏腹に、極めてラディカルな問題を露呈させてしまっています。つまり、どれが現実で、どれが仮想である、というのは、我々は積極的な意味で定義づけすることが不可能なのです。夢から覚めた現実が、実はもう一つの夢だったら?マトリックスから脱出したと思ったら、そこが別のマトリックスの中だったとしたら?これは哲学的な議論ではなく、現実に中東の状況を見れば、より明快ですね。イスラム教徒にとってはキリスト教世界は現実ではなく、打ち倒すべき仮想現実でしかありません。当然キリスト教徒にとっては、その逆です。この両者が相対した時、戦火は避けられません。そしてお互いに、「俺は社会を守るために、人々を解放するために戦っているんだ!」となってしまいます(余談ですが、実際この映画が中東で公開された時、エジプトのあるメディアは、この映画に出てくる"ザイオン"という人類最後の都市の名前を引き合いに出して、これはシオニズムを喧伝するための映画だ、としてクレームをつけたそうですが、これは言い得て妙たる指摘だと思います)。

 僕ならこう解釈します。人々が普通の生活をしている「と思い込んでいる」仮想世界があって、それがマトリックスである、しかし、そこから離脱した世界もまた、実はマトリックスなのです。マトリックスは、「テレビの中にも、教会の中にも」至るところにあります。そしてそれは、二つどころではなく、無限に(あるいは、全ての現実意識を持つ生命体の数だけ)あるわけです。我々はその虜に過ぎない。これは正に、かつてフランスからスタートした、「構造主義」の認識ですね。しかしこの地点で残念ながら、映画の『マトリックス』は踵を返すわけです。ですからこの発想を、旧来の"現実/仮想"、あるいは"人間/機械"の二元論に帰着させてしまったウォシャウスキー兄弟が、ボードリヤールにアドバイスを求めても、断られるのはしょうがないのかな、と思ったりして(笑)。でもこのパターンはかなり見られますね。例えばドゥルーズ=ガタリの言う"リゾーム"を、単なるヒューマニズムに帰着させてしまっている連中とか。

 ですからこれは、現実世界に違和感を抱いて生きている人が、必ず陥る困難ですね。彼らはそうではない"本当の世界"を"仮想"して、それに近付こうとして、ヨガや気功や『オーラの泉』(笑)に手を出す。いわゆる神秘主義ですね。ところが実は、古今東西の本家本元たる神秘主義を詳細に検討してみると、良質のものであれば、必ずそれを乗り越えようとする教えが組み込まれているのに気付きます。この点に関しては、中沢先生が、『チベットのモーツァルト』(講談社学術文庫)の中で、神秘主義の最高峰と目される(笑)カルロス・カスタネダの『ドン・ファン・シリーズ』を題材に、極めて明快な解説をされています(前掲書「孤独な鳥の条件」)。禅で言えば、「仏に遭うては仏を殺し、祖に遭うては祖を殺し」、あらゆるマトリックス=構造を拒否して、宙ぶらりんの状況に身を置く、あるいは、全てをマトリックスとして見る、そのような状況で培われるフラットな視点(ドン・ファンはこれを、ズバリ、「見ること」と言っています)を、常に失わない、ということが重要なのです。

 これを理解するのが、仏教の至上命題です。そしてこの時、本当の意味での完全なリラックスが、達成できます(・・・と同時に、逆にこの状態が完全に理解できれば、人の運命を読み取るのは、極めて簡単に出来ます。何故なら、ほとんど全ての人は、マトリックスの住人であり、インストールされたプログラム通りにしか生きることが出来ないからです)。

 そのような議論を踏まえた上での結論として、"邪気を払う"あるいは"邪気から身を守る"最も効果的な方法は何か、と問われれば、それは、「逸らす」ことです。これが最も効果的で、かつ簡単です。こちらのパワーを増強させることで相手を跳ね返す、という方法もありますが(先にも僕のケースで触れましたね)、そのようなパワー対パワーの戦略は、より強いパワーに対しては、効果がありません。人間はパワーでは、機械に勝てない(笑)。別の戦略が必要です。

 ここら辺は、太極拳の極意でもあります。太極拳には、「双重の病を避ける」という言い方があります。両者ががっぷりと組み合っても、それは体力勝負でしかなく、必ず強い方が勝ちます。しかし、それは武"術"ではないわけです。「逸らす」こと。それは相手の力だけではなく、自分の意識に対してもそうです。マトリックスからマトリックスへと、軽々と移動すること。

 要するに、執着しないということです。

 これに関しては、次のような中国の禅の逸話が、参考になるのではないでしょうか。



 ある街の路地に、かなり気性の荒い暴れ馬がいました。その馬は、近づく人を誰であろうが蹴ろうとするので、近所の人はとても困っていました。

 その時、ある禅の大家だと目されている僧が通りかかりました。近所の人は、「あの坊さんは何でも、禅の大家だという話じゃないか。あの人がどうやってあの暴れ馬がいる路地を通るか、一つ物陰から見物してやろうぜ。」村人は物陰から、固唾を呑んで見守っていました。

 果たしてその僧、路地に入ってその馬を見つけると・・・、黙って引き返して、他の路地を行きました。



 正に禅の大家。このようなスタンスで臨まれると、ベターかも知れませんね(笑)。



 今回も、教材を頂戴致しまして、真に有難うございます。早速参考にさせて頂きます(笑)。

 今週末、中国へ行ってきます。赤陽先生にも会うので、ちょっと内勁一指禅功と、劉先生の一指禅功の相違についても、尋ねてみますね。そこら辺は学術的にも、興味のあるところですし。

 また今回の武当山は、レア道教とレア太極拳のメッカということですので(笑)、怪しげなアイテムがあったら仕入れてこようかな、と思っています。

 劉先生とお会いするのも、久々ですしね。前回はかなりおとなし目だった僕ですが、今回は攻撃的に行こうかな、と思っています。禅の王道だったりして(笑)。



 そんなわけで、F先生にも宜しくお伝え下さい。常に心身共に、リラックスが肝要ですよ、と(笑)。



 それではまた!





at 11:09, やわらぎ気功クリニック 中原勇一, ある精神科の先生との対話

comments(3), trackbacks(6)

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comment
, 2010/07/02 11:50 AM

お返事を頂き、ありがとうございます。
以前、私は「邪気」というものに対して、懸念や恐れがありましたが、仏教を勉強するようになって、そういう懸念や恐れはスッカリ消えました。
自性がなく縁起によって存在しているもの=「空」だからだと考えられるようになりました。つまり元々の気に良いも悪いもないのではないかと思えます。
大変いい加減な気功の生徒でしたので、気に対する考え方は間違っているかもしれませんが。こんな解釈もあるとご参考までにコメントさせて頂きました。




中原勇一, 2010/06/19 12:56 AM

コメント有難うございます。

私の場合は最初チベット仏教の研究で有名な中沢新一先生の所に伺って、その後数年経ってから赤陽先生とご縁があって、気功を始めました。因みにチベットへ行かなかったのは、中沢先生に止めておけと言われたからなのですが(笑)。

そういう過程の中で、心と体とは極めて密接な関係にあるのだな、ということが理解出来るようになりましたね。

, 2010/06/18 5:00 PM

ブログを拝見して、私と逆のパターンでいらっしゃるのに少々驚きました。私は、以前、赤陽先生に気功を教えて頂いておりました。と申しましても、怠け者でしたので、大変いい加減な生徒でしたけれど…
現在は、チベット仏教を勉強しています。
私が教えて頂いている方達は、ゲルク派ですので、ニンマ派のゾクチェンは教わってはおりませんが、タントラと気功はかなり共通点があると思います。










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妄想多発領域, 2009/04/07 7:14 PM

前略。SASURAI 様。  映画は “完結した” はずなのに、なんで また、今週も……と訝しんでおられることでしょう。  実は 前回の記事、およ...

妄想多発領域, 2009/04/02 2:30 PM

前略。SASURAI 様。  大ヒットした マトリックス - シリーズの完結編が封切られたのは、もう5年半も前のことになります。  たしか1999年に...

クラシック音楽ぶった斬り, 2008/05/19 1:01 AM

ワルターが悦に入って歌いながら指揮している様が眼に見えるような演奏だ。

インプラント , 2008/05/18 3:47 PM

わたしたちは毎日特に何も考えずに歯を磨いています。それは日常生活の中の習慣となっているからです。 虫歯や歯周病などは細菌が作り出す感染症になりから、歯磨きの必要性というのは大変重要になります。

クラシック音楽ぶった斬り, 2008/05/16 3:04 PM

これほど超豪華メンバーによるモーツァルトの室内楽というのも珍しい。

モデムセットアップ, 2008/05/15 3:02 PM

使う通信回線がアナログ電話回線であればモデムISDN感染であればISDN TAというように使う通信機器は違ってきます。 ですが、モデムとISDN TAはパソコン側から見ますとほとんど違いがありません。 どちらもRS-232CやUSBなどのシリアルインターフェースで接続して、